ITOI
ダーリンコラム

<知る、ということは愛のはじまり

おほほのほ。
なんかカッコつけた言い方になってしまいましたね。
このごろ、つくづくそう思うもんでね、
ぽろっと書いてみたんですが。

なんか、縁がでてきて、また東北に行ってきたわけですよ。
青森で、「日本文化デザイン会議」ってのが開かれていて、
そこに行ってきたのです。
この「会議」とかには、正直言って飽きてたんですが、
「竹村真一・竹村健一」親子対談の司会という役割なんでね、
これはおもしろそうだぞと、出かけていったわけです。
事実、とてもおもしろかったんですがね、
それより驚いたのは、地元青森の人たちの反応が、
すばらしかったんですよ。

壇上で話をしている人たちがいて、
それを聞いている人たちがいる。
この形式は、青森もよその土地も同じなんだけれど、
どう言えばいいのか・・・
聴衆の耳が休んでないって感じがあるんです。
盛大な拍手や、笑い声や、積極的な質問や、というものじゃない。
メッセージがクンックンッと、客席のたくさんの耳のなかに、
吸い込まれていくという実感があったんです。
これは、わかるんだ。しゃべっている側の人間にも。

そりゃ、ね、話がおもしろかったから当然じゃよと、
自慢してまとめちゃう事もできなくはないだろうが、
それだけでは絶対にないんだ。
青森の人たちが、外から来る風を入れようとしているんだな。
本気なんだ、きっと。
「文化でございます」とか
「先生がたでございます」なんてものでお茶をにごしたら、
きっとブーイングだったと思うよ。

開いているんだ。東北の人たちって。
旅人に対して、新しい時代に対して、耳を目を、口を、
せいいっぱい開いているんだと思った。
このどうしょうもない現在を、
閉じることでなく開くことで、
勝負していこうとしているようなのだ。

東北というと、「閉じている」というイメージはなかったか。
東北弁は、寒いから口を開かないでしゃべることでうまれたとか。
もっともらしい説明をされたような気もする。
ぼくは、そういうふうに思っていた。誤解していたのです。
つまり、東北のことを知らないままでいたわけだ。

しかし、入口に立った程度ではあっても、
ほんの少し余計に東北を経験して東北のことを知ったら、
ずいぶんこの土地のこと、この土地に住む人々のことを、
好きになってきた。
きっと、知らなきゃそのままだったと思うんですよ。

知ることは、やっぱり愛することへの入口なんですね。
知識を貯め込むことと知ることは、
きっとちがうんだと思うのですが、
知ろうとしないということは、よくないよなぁと、
愛につうじるドアを閉めてしまうことなんだなぁと、
考えたりしているわけです。
また、きっと、東北に行きます。
釣りで、か、温泉か、もっと他のことでかはわかりませんが。
開きっぱなしで待っててください、東北の皆さん。

えー、今回の結論は、「しょうがねぇなぁ」でしょうか。

1998-11-09-MON

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