ITOI
ダーリンコラム

<うるおいについて>

このごろ、仕事中に女性ボーカルのCDを
聴いていることが多い。
女声というのは、そんなに好みじゃなかったのだが、
このところ、なんだか気になって買うようになった。
特に、歌の上手な人のがいい。
超ベストセラーの「セリーヌ・ディオン」なども
もちろん聴き続けている。

不況気分と、激しい競争社会がはじめるぞという覚悟と、
毎日の肉体労働に近い忙しさと、
それに深く関係する「臨戦ムード=働き者ブーム」
のせいでまるで、生活がゲリラ戦士のようになっている。
ぼくの「モテナイ光線」の放射も、
どうやら、「色気どころじゃねぇよ」という、
現在の気分によるところもあるようだ。
(ひょっとしたら、若い人たちのブショウひげの流行も、
そのひとつの表現形なのではないかと思っている)

この現在のライフスタイルを、
ぼくらは、簡単にやめるわけにはいかない。
まだまだゲリラ戦士のような暮らしをしていくつもりだし、
それがおもしろくもあるのだから、
いまさら「ゆとりある生活」に戻るわけにはいかない。
みんなだってそうでしょう?

しかし、これ、ずっと続けていると、
「うるおい」というものがなくなるんですねぇ。
なんでも「花より団子」になっちゃうと、
気持ちもカサカサしてくる。
花ってものは、なんで世の中にあるのか?
ほんとはよくわからないものである。
しかし、「花がないなぁ」という喪失感によって、
その存在価値が浮かび上がってくるものらしい。
そのことを、ぼくの身体が感じて、
胸焼けした犬が青草を噛むように、
女声ボーカルを聴いているのだと思う。

いまのような経済万能主義の社会に対して、
反省の声も聞こえはじめてはいるが、
やっぱり、まだまだ、
経済戦争をよく闘う者よく勝つ者が
「善い」のだという幻想がいまの世界を覆っている。
ぼくらも、闘い方については、
その「善き人々」のコピーをしているようなところがある。
ビル・ゲイツやジョージ・ソロスが、
どう勝ってきたかを、誰もが羨望や嫉妬をまじえながら
知ろうとする。
勝つ方法を考えれば考えるほど、勝ってみたくなる。
そのための努力を惜しまないものが、
勝つための機会を多く得ることができる。
さぼって負けるのは気持ちが悪いから、
ぼくらだってやっぱりゲリラ戦士になっちゃうわけだ。
休まないもんなぁ、「ほぼ日」だって。

でも、花のない、団子ばかりの世の中なんて、
生きていたくないよー、ほんと。
団子で花が出来てるような社会は、いやだよう。

一方では、泥にまみれた戦場を覚悟し、
もう一方では、花を求める。
あきらかに矛盾なのだけれど、しかたがない。
ぼくは貴族でも大地主でもないのだから、
ほとんどの時間を、働くことに使うのは当然のことだ。
しかし、奴隷でもロボットでもないのだから、
舌にうまいものを乗せたり、
耳にきれいな音楽を流したりしたいのも当然のことだろう。

数年前に、モノポリーの世界大会があった時・・・
ロンドンだったかなぁ。
世界の出場者たちが集うパーティーがあった。
モノポリーというボードゲームは、
勝つためには「たいがいのこと」はやるという、
えげつないくらいの経済競争ゲームだ。
むろん、このパーティーでも、強い人が尊敬される。
ところが、ここで、ほんの短い時間だったけれど、
その場での「強い者が偉い」という価値体系が
ぼくのこころのなかで逆転する瞬間があった。
試合中は目立った選手でなかったフランスの代表が、
そのパーティー会場にあったピアノに向かって、
おもむろに場の空気をなごませるような
軽めのジャズピアノを演奏しはじめたのだ。
かっこよかった。
その人の生きてきた時間が、
団子ばかりじゃなかったということを、
さりげなく見せてくれたのだ。
一瞬だけれど、モノポリーの大会にいながら、
「モノポリーに強いだけ」というような人間に、
何の価値があるのだろうと、
ぼくは考えさせられてしまった。

あれで、あのフランス代表が、
ゲームのほうでもすっごく強かったら、
ぼくも、もっといい夢をみられるのになぁ。
ビル・ゲイツは、ピアノ弾くかなぁ?

1999-20-22-MON

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