ITOI
ダーリンコラム

<ぼくの「いい文章」論>


ぼくは、自慢じゃないけれど
「文章について語る」ような人間ではない。
もうちょっと別の言い方をすれば、
「文章について語れる」ような人間ではない。

文章の修業をしたおぼえもないし、
よりよい文章を書こうと意識してきたつもりもない。
思うような文章が書けないからといって、
苦吟したり煩悶したりもんどりうったり壁を叩いたり
青ざめたり自己嫌悪に陥ったり嫉妬したり絶望したり‥‥
したようなことは、まったくない。

書ける時は書けるし、書けないときは書けない。
仕事で、書けなきゃ困るという場合は、
なんとか書けるまでがんばるというだけだ。
それにしても、もう文章を書くということを
いわばメシのタネにしながら
40年近く過ごしてきたのだから驚いてしまう。
苦吟したり煩悶したりの文章書く人たちからしたら、
おもしろくないヤツなのかもしれない。
でも、そういう人たちと、自分は、
どうも「稼業がちがう」というような気がするので、
ぼくのほうから申し訳ないという気持ちにはならない。
だからといって、
真剣に文章と取り組んでいる人たちのことを、
否定するつもりはまったく、
もう、ほんとにまったくないのである。

真剣さということばで表されるようなことについては、
ちょっとかなり自信がないのだけれど、
なにはともあれ40年も、
文章を書くことを仕事にしてきたのだから、
「なんにも思ってない」ということではなさそうだ。
自分で書いたものについても、
他の人の書いた文章についても、
いいだのわるいだの、
おもしろいだのおもしろくないだの、
きれいだの見苦しいだのと感じているわけで、
そこには、アホはアホなりの
基準のようなものがあるはずだ。

あ、ここで語ろうとしているのは、
文章のことであって、意味内容のことではない。
むろん書いてある内容は、文章と密接に関わっていて、
分けることはむつかしいのだけれど、
あえて、意味内容のことじゃないよう、と言っておく。
内容はいいけど文章としてよくないというものはある。
自分でも、そういう文章を書くこともある。
そして、内容なんてまったくないのだけれど、
いい文章だなぁということも大いにあるのだ。
これまた、自分でもそういう文が書けることがある。

では、ぼくは、どういう文章を
いいと思っているのだろうか。
そのことについて、いまさらながら、
ちょっと説明できるような気がしたので、
ここに書いておこうと思う
(先にさんざん言い訳をしておいたけれど、
「文章読本」のようなものには、まったく縁のない、
ただ単に長いこと文章とつきあってきただけ、という
ぼくの考えだから、気をつけてくださいね)。

まず、ことばを「道具のようなもの」だと思うと
わかりやすい。
「言霊」だとかのことを考えるのは、
ぼく自身も嫌いじゃないのだけれど、
ここはひとつ「道具」ということにしておく。

絵だったら、画材。
筆だとか、絵の具と考えてもいい。

料理に例えるとしたら、食材だと思えばいい。
調理器具だと考えてもいい。

ぼくが「いい文章」だと思うものというのは、
書き手が、自分の使える道具を使っている。
そして、その道具が使いこなせていることが、
まず第一の条件だ。

円空仏などは、おそらく鉈のようなもの一丁で
刻まれている。
一本の絵筆だけでも、いい絵は描ける。
一色だけでも、いい絵は描ける。
指についた泥でも、いい絵は描けるものだ。
他人が使っている道具を借りてきて使っても、
使えもしないのにやたらに絵の具の色数を揃えても、
それはたいていよくないものを生み出してしまう。
よく「簡単なことば、誰にでもわかることばで語る」
という言い方があるけれど、
そのことを守り通すのは、けっこう難しい。

では、自分にとって「使える道具」とは、
どういうものだろうか。
たぶん、それは「飽きずに使っている道具」だ。
女のコたちが、なにかというと「かわいい」を連発して、
表現力が乏しいという批判を受けたりしているけれど、
「かわいいということばじゃ、言えないこともある」
と自分で思うまで、
何十年でも「かわいい」と言い続ければいいと、
ぼくは思うのだ。
「かわいい」ということば(道具)は、
一本の鉛筆のようなものだ。
それでなんでもかんでも描けるだけ描いたら、
きっと自然に他の色がつけたくなるだろう。
つけたくならなかったら、それはそれでいい。
「かわいい」を削除した空白に、
借りてきたばかりの別の単語を代入しても、
「いい文章」からは、離れて行くばかりだ。
それは、たくさんの道具(ことば)を
持ってる(知ってる)というだけのことだ。

ほんとうは、以上でおしまいにしてもいいくらい
なのだけれど、もうちょっと続けても大丈夫だろう。

「使える道具」だけを使っているうちに、
他の道具も使ってみたくなったりした場合のことだ。
さっさと使えばいい、というものではない。
考えなしに使ったら、いくらでも際限なく
使うことになってしまうものだからだ。

使える道具(ことば)以外を使う場合は、
慎重に使うこと。
これが、ぼくの考える「いい文章」の
ふたつめの条件だ。

「慎重に使う」って、ずいぶんあいまいな言い方だ。
本人が慎重だと思ったら慎重と判断していいのか。
そこは、わからない。
ことばを使う本人が「じゅうぶんに慎重」だと思ったら、
それはもう慎重と言っていいんじゃないの?
というくらいの感じである。
使うなといくら禁じられても、使いたくなるのが
新しい道具であり、新しいことばなのだ。
特に、「まわりのみんな」がどんどん使っている場合は、
自分だって使ってみたくなるものだ。
しかし、それが「いい文章」をダメにすることが多い。
そういう例はあえて記さない。
世の中のほとんどの文章は、そういうものだから。
だから、つまり、気をつけよう、と。
慎重に使おう、と。
そういうことだ。

以上、おしまい。
ほんとうは、以上でおしまいなのだけれど、
ここまでは、
「ふつうの人」にとっての「いい文章」の話。
この先が、あったりもするので困っちゃうのだ。

世の中には、ものすごくいろんな道具を、
ものすごくじょうずに使いこなせる人がいる。
それは職業作家という人たちだとか、
「あなたの友人の天才的なやつ」だとかと、
まったくイコールではない。
文章を仕事にしている人や、
文章で他の人よりも抜きん出ようとしている人のほうが、
上記のふたつの条件を守りにくいからである。

でも、いるのだ。
「使える道具」の数が、とんでもなく多くて、
それをいちいち「使いこなせる」という人たちが。
ま、それは、大工さんなんか技術で例えれば、
一人で家を建てちゃうようなことだと思う。
これは、「道具(ことば)」をいっぱい持っている
ということとはちがうんだよねー。
いわゆる「難しいことばをたくさん知ってますなぁ」と
言われるようなモノシリという人たちがいるけど、
それは、「いい文章」とは関係ないの。

大事なことは、こういうものすごい人たち、つまり
「使える道具」の数が、とんでもなく多くて、
それをいちいち「使いこなせる」という人たちも、
基本的には、自分の使える道具(ことば)を使っている。
そして、使いなれない道具(ことば)を使うには、
慎重になっている、ということにかわりはない。
そのうえで、「めくるめく」と言いたくなるくらいの
豊かな表現技術を見せてくれるからすごいのだ。

簡単すぎて拍子抜けさせてしまったかもしれませんが、
これで、ぼくの「いい文章」についての話は終わりです。
これ以上、言うことも、言えることもありません。
あえて付け足すなら、この、ぼくの見方は、
文章だけでなく、人間を見るときにも、
写真を判断するときにも、景色を楽しむときにも、
スポーツや芝居を見るときにも、ほとんど同じです。

「できることを、とてもうまくやる」
サーカスの曲芸だって、そういうことをしているし、
奇跡的と言われるようなコンサートだって、
そういうことで、
「できることを、とてもうまくやる」ことが、
「特にとてもうまくやれた」というものなのだ。
ぼくは、そういう考えをしている。

「できないこと」はできない。
不可能を可能にすることは、無理だ。
もし、「できないこと」ができたように見えたとしたら、
それは、「できないこと」だと思われていたことが、
すでにできるようになっていて、
それが(初めて)うまく表現された‥‥ということだ。

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2007-03-26-MON

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