ITOI
ダーリンコラム

<深いって、いいことか?>

今回は、いままでに何回か書こうと思っていたのに、
説明にならないような気がして、書かなかったことを、
説明になってなくたっていいや、と書くことにします。
明快な結論が欲しいという人は、
読まないほうがいいかもしれないです。
以上、ご注意まで。

若い人が、経験ゆたかな先輩のすることについて、
「深いなぁ」と、感心していたりする。
これは、当然、ほめているつもりなのだ。
また、言われた側も、ほめられたと感じる。

「深い」の反対は「浅い」である。
「おまえのすることは、浅いんだよ!」
と言われたら、
それは怒られているということだ。
「浅い!」とほめられることは、ほぼない。

ただ、深いと言われることもちょっとあり、
浅いと軽蔑されることもかなりある立場の
ぼくとしては、
「浅い」くていいこともいっぱいあるし、
「深い」からといってよくないことだって、
いくらでもあると考えていた。

もともと「重い」が「軽い」よりも
価値を持っている
という考え方が嫌いで、
それと「深い」「浅い」の比べられ方が
よく似ていると思っていたのだと思う。

しかし、あるときに、
「深いはダメだ」と断言する人に出会った。
言われたときには、
よく理解できてなかったけれど、
その後、まったくその通りだと
思うようになるばかりだ。

そう言ったのは、
『だれでもつくれる永田野菜』でもおなじみの
永田照喜治先生だった。
いっしょにヨーロッパの
農業視察の旅をしているときだ。
ぼくらは、パリの街を歩いていた。
永田先生は早起きなので、
すでその辺りをたっぷり散歩していたようだった。

永田先生は、つまらなそうに口を開いた。
「朝早くに、ソルボンヌの学生が勉強道具を持って、
 学校に出かけてましたよ」
「はぁ、ずいぶん熱心なんですね、
 ソルボンヌの学生って」
「だから、ダメなんですよ」
「ダメですか、熱心は?」
ここからだ。
「朝早くから学問をしようなんてのは、
 深く掘り下げようとしている考え方ですよ。
 学校なんか来ないで、
 もっと他のことをすればいいのに、
 できないから、学校に来て、
 深く掘ろうとするんです」
「はぁ、そういう考え方もできるかもしれませんね」
「細く深い根っこは、栄養も吸収できないし、
もろくてすぐに倒れちゃいますよ。
第一、深く掘れば掘るほど、なにもないでしょう」

大地と植物の関係に喩えて言っているのはわかった。
ぼくは、これより前に、
永田先生の見せる、
「いい根っこ」をたくさん見ていた。
それは、毛細血管のように細かくて、
まさしく
「繁茂する」ということばが似合うような
量感のあるものだった。
そして、それは決して「深く」張られた根ではなく、
浅いのに簡単に抜けないほど
地面と一体化したものだった。
「うまい根」とか
「おいしい根」とあだ名されていた。

そこまではわかっていた。

しかし、朝から大学に出てくる
勉強熱心な学生に対して、
「おいしい根」じゃないからダメだ、
と言えるのか?
そういう思いもあった。
だから、会話としては印象深く
憶えていたのだけれど、
「勉強熱心な学生たちも、日本のおじさんに
そんなふうに批判されて、お気の毒にね」
くらいに考えていたのだった。

ところが、最近は、もうすこし
あのときの永田先生の意見に
共感できるようになった。
当時よりも、少しは古典と言われる書物とかを
読むようになったせいなのかもしれない。
「いいなぁ」と心から思える文章や、考えは、
決して「深い」わけではないようなのだ。
「深い」のではなく、しっかりゆたかに根を張っている
‥‥そんなふうに思えるようになった。

だいたい、ほんとうに「深い」いいものなんて、
ほんとにあるのだろうか?
文学でも芸術でも科学でもいいんだけれど、
「深くてすばらしいもの」って、たとえば、なんだ?
具体的に、挙げられる?
挙げられたとして、それって「深い」?
さらには、「深い」からいいのかね?

よく「胸の奥の奥の深いところに響いた」
とか言うけれど、
せいぜい「奥の奥の深いところ」くらいだったら、
20センチ以内っていう感じじゃない?
それは「深い」わけじゃないような気がするよね。

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2006-10-30-MON
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