カレーライスの正体
第18回
カレー文化の未来
2017.6.4 更新
# 日本にはカレーという
料理だけが伝わってきた

 世界中にカレーがあることはわかった。整理すれば、その伝播ルートは、イギリス人からかインド人からか、その両方か。それが時代によって移り変わる。カレーという料理の存在を最も早く世界中に知らしめたのは、おそらくイギリス人である。自国で生み出したアングロインディアンカレー、もしくはブリティッシュカレーを携えて世界各地に入植した。インド人という労働力を同伴した場所については、インド料理が伝わるケースもあっただろう。

 ただ、カレーのルーツであるインド料理が堂々とその食文化を世界に発信するようになったのは、インドがイギリスからの独立を果たした20世紀半ば以降となる。だから、世界の多くの地域が、イギリスのカレーを知り、その後にインドのカレーを知るという順序でこの料理に接触したことになる。

 その点においては、日本も同じである。明治維新の時期にブリティッシュカレーが伝わり、その後、インド独立より前だが、20世紀に入ってからインド人によるインド料理が伝わっている。ただ、日本だけは少し、他と伝播のタイプが違う点がある。イギリス人が移住してコミュニティを形成することなく、カレーという料理だけが伝わったからだ。しかも、そこにはインド人という労働者も存在していなかった。イギリス人もインド人もいない。伝道者不在という状況でカレーという料理だけが日本にやってきたのである。この点において日本は本当に稀有な例だ。

# なぜカレー文化は日本にしかないのか

 そして、このことが起因しているのか、現在、カレー文化が存在するのは、日本だけである。世界中にカレーは存在する。でも世界中のどこにもカレー文化は存在しないのだ。日本を除いては。インドにはインド料理文化、スリランカにはスリランカ料理文化、ネパールにはネパール料理文化がある。でもインドにカレー文化は存在しない。

 ちょっとややこしいかもしれない。こう考えてみてほしい。カレー専門店という外食業態がある。説明するまでもないが、カレーだけを専門的に提供する店。日本では当たり前のこの業態が、世界中のどこにもない。インド料理店ではない。カレーの専門店である。イタリア料理店は世界のどこにでもあるが、ナポリタン専門店は日本以外に成立しえない、みたいなことに近いのかもしれない。

 要するに日本に伝わり、日本で独自に育ってオリジナリティあふれる料理に成長したカレーというものは、それを専門的に提供する店が全国に何千軒も生まれるほど、特別な存在になっているのである。

 インドで生まれた料理が外国人によってカレーと呼ばれるようになった。それが世界中に広がった。それなのに国民食と呼ばれるまでに進化し、愛され続けている国は日本だけなのである。なぜ、他の国で成長しなかったカレーが日本においてだけ成長したのか。その理由は本当にわからない。不思議な現象だというしかない。

# 日本のカレーはお米がカギ

 日本でカレーが特別に愛された理由をなんとかひねり出そうとしたら、ひとつ思い当たることがある。主食であるご飯のおいしさとその味への執着だ。日本のご飯は抜群にうまい、と日本人の僕は心の底からそう思う。一時期の僕は、カレーライスを食べるときのカレーソースは、「ご飯をおいしく食べるための道具だ」というくらいの感覚を持っていた。

 カレー好きに知らない人はいないほどの人気を誇る老舗カレー専門店「デリー」は「インドパキスタン料理」というキャッチコピーをつけているが、インド料理をベースにしたオリジナルカレーで、創業時からのコンセプトは、「日本のご飯に合うカレー」だという。

 ジャポニカ米のふっくら、もっちりした食感と甘味のある深い味わいは、我々日本人のDNAに刻み込まれているのではないかと思うほど特別なものだ。江戸末期から明治初期にかけて、日本では汁かけ飯がよく食べられていたというが、飯があれだけうまいのだから、何かと汁をかけて食べようという習慣は全く頷ける。日本でカレーライスが定着した理由も、当初は汁かけ飯のバリエーションのひとつとして食べられたという説もある。かつてはカレーを「辛味入り汁かけ飯」と呼んでいた時代があるくらいだから。

 あのおいしいご飯に負けない味わいが必要となるが、明治初期にイギリスからやってきたブリティッシュカレーは、現存するレシピを色々と調べ、試作をしてみた限りにおいてはイマイチうま味が足りない。それもそのはず、イギリスで食べられていたブリティッシュカレーもライスと共にサーブされるが、そのライスは、パラッとして軽い味わいの長粒米だし、レシピには決まってこう表現されている。「カレーができあがったら、ライスを添えて出す」。すなわちイギリス人にとってライスは主食ではなく添え物なのである。

 日本人にとっては「カレー&ライス」。カレーとライスは対等だ。でもイギリス人にとっては、「カレー with ライス」。ライスはあってもなくてもいい存在である。ロンドンでは見つけられなかったが、アイルランドには今も当時のブリティッシュカレーが残っている。パブやレストランで見つけて注文すると必ず店員にこう尋ねられた。「ライスにする? それともチップス?」。チップスと答えれば、フライドポテトがどっさり添えられてくる。彼らにとって添え物は、ライスでもポテトでもどちらでもよかった。

 日本人はそうはいかない。カレーはどうしても日本の主食であるご飯と調和しなければならないのだ。だから、洋食や西洋料理のシェフたちは、長い年月をかけて、日本のご飯と肩を並べられるような味わい深いカレーの開発に勤しんできたのだと思う。その結果、カレーはどんどん進化していった。日本のカレーが世界中のどこにもないユニークな姿と味わいをしているのは、ジャポニカ米をおいしく食べたいという、日本人特有の欲望が裏側に潜んでいたからなのかもしれない。

# だし文化の日本と、油文化のインド

 ライスが主食、といえば、カレーのルーツであるインドもそうだ。特に南インドや東インドの主食はライスである。ただし、ライスの種類が違う。インディカ米と呼ばれる長粒米でパサパサとしていて香り高くてうまいが、うま味があるわけではない。だからなのか、南インドや東インドのカレーの特徴はサラッとしていてスパイシー。ずっしりと重みのあるような食べ応えやうま味を感じさせるタイプではない。

 一方、北インドのカレーは割と濃厚なコクを持ったものが多い。合わせるのは、ライスではなく小麦粉から作られる各種パンである。ギーと呼ばれる精製バターをはじめ乳製品やナッツなどで食べ応えのある味わいを作り出す。

 そもそも日本とインドでは、食文化圏が違う。インド料理の特徴は、スパイスの香りで素材の味わいを引き出すことにあるが、そのときに欠かせないのは油である。油でスパイスを炒めて香りを強めるのは常套手段である。インドは油文化圏であり、日本はだし文化圏だ。またインドが乳製品を多用するのに対して日本は味噌や醬油などの発酵調味料を多用する。インドが乳製品文化圏であり、日本は発酵調味料文化圏なのだ。

 これは完全に私見だが、インド料理は基本的に日本人の味覚には合わないものだと思う。インド料理が大好きで、毎年欠かさずインドへ出かけている僕がそう思うのだから、仕方がない。もちろん人それぞれ好みは違うから日本人を代表して意見するつもりはないけれど、たまの食事は別として、やっぱり油や乳製品で調理したものよりもだしと醬油で調理したものを食べたい。これだけ食文化が異なるわけだから、インド料理がイギリスを経由せずに日本にやってきていたら、ここまで日本にカレーが根付いたかどうかは疑わしい。

 とはいえ、最近、巷ではインド料理が注目され、流行している。これはすごく嬉しいことだ。色鮮やかで香り高く、旬の素材を楽しめる食事。体にもいい食事。スパイスへの関心は高まっているし、今のトレンドにぴったり来ていることが理由だと思う。インド現地で食体験をする日本人も増えてきた。

 かつて、日本のカレー文化の中で、インド料理は、ルーツであるとはいえ、幅広いカレー世界のジャンルのひとつでしかなかった。積極的にインドのカレーが選ばれるようになったのは、150年に及ぶ日本のカレー史において、ここ20~30年くらいのことだろう。南インド料理の専門店が増えはじめ、インド人はナンばかり食べているのではないことが認識されるようになった。ミールス(南インド式定食)とかビリヤニ(インドの炊き込みご飯)とかいうマニアックな料理も普通に一般の人が楽しめるような時代になりつつある。

 そういう意味では、未成熟のジャンルだから、今はまだインド料理の知られざる側面が紹介されれば自ずと注目が集まる。その点で、作り手の側から見れば参入障壁の低い料理といえる。ミールスが何なのか、ビリヤニが何なのかについての経験値が浅い日本人にその魅力を伝えるのが難しい反面、好奇心旺盛な人には出せば売れる料理でもある。少数ではあるが一部のファンの間ではトレンドになっているから、しばらく追い風は吹き続けるだろう。この風に乗って一気にインド料理というジャンルが定着してほしいと思う。

……つづく。
2017-06-04-SUN