カレーライスの正体
第10回
家庭のカレーの未来
2017.4.9 更新
# カレールウの功罪

 家庭におけるカレーは長い間、ルウが支配し続けてきたが、この家庭のカレーに思わぬ展開が待ち構えていた。

 カレールウは具体的に家庭で料理を作るあるタイプの女性を助けた。それは料理が得意でない女性だ。なぜなら、誰がやっても失敗なくおいしいカレーができあがるアイテムだったから。必然的に全国の家庭でカレーが登場する頻度は増えた。「今夜はカレーよ」という掛け声とともに“あのおいしいカレー”が夕食に登場する。家族は大喜び。カレーは幸せな家庭の一家団欒の象徴となった。カレーの地位は急上昇していく。

 ところが、予期せぬ事態も待ち構えていた。実は、カレールウが別のタイプの女性の味方にもなっていた。それは、忙しくて家族の料理を作る暇のない女性だ。子供が家でお腹を空かせて待っている。仕事で帰りが遅くなった母親は、帰宅後に1時間も2時間もかけて料理をしている暇はない。そこでカレーが登場する。もしくは、母親は今夜、友達と約束があって、子供と一緒に夕食を取ることができない。何かを作り置きして出かければ自分がいなくても子供は自分で夕食を済ませることができるだろう。そこでもカレーは登場する。

 幼いころのカレー体験について、「いい思い出がない」と答える人がたまにいる。そのほとんどの人の理由が、「夕食がカレーの日は母親が自宅にいなかったからだ」と。こう答える人もいた。「母親が自宅に一緒にいても、『今夜はカレーよ』と言われると、『手抜きしたな』という残念な気持ちになった」と。いずれもカレーに対してのイメージが極めて悪い。カレーに罪があるわけではないのだけれど。

 かつては一家団欒、幸せの象徴だったカレーが、一転して、家族の家にいない孤独な食事の象徴になったのである。「便利である」ことが「手抜きをした」と価値を下げ、逆に「不便である」ことが「手間をかけてくれた」と価値を上げることもある。どちらも欲しいという欲求に応える方法はないのかもしれない。もちろんこの事態が必ず時系列でどの家庭でも起こったというわけではない。ただ、時代の流れと共に家庭でのカレーの地位も徐々に落ちていったことは事実だ。

# 同じカレールウなのに
違う味

 カレールウ最大の功績は日本人に新しい“おふくろの味”を授けたことかもしれない。市販のカレールウは失敗しないことにおいては本当によくできている。だからこそ、家で作られるカレーはいつも同じ味だった。同じ味のカレーを繰り返し食べる行為は、そのうち完全に習慣化する。その結果、カレーは日本を代表する「おふくろの味」へと進化したのだ。日本全国で同じようなカレールウが使われ、同じような味わいのカレーが作られる。それが個々の日本人のおふくろの味になるのは不思議な現象だ。

 こんな経験はないだろうか。幼いころ、友達の家へ遊びに行って、夕食をご馳走になることになった。その日はカレーだった。友達がいつも食べているいつものカレーを自分は初めて食べるのだ。食卓に運ばれてきたカレーを見て、息を呑む。んんん? うちのカレーと全然見た目が違う。ひと口食べてまた息を呑む。味も全く違うじゃないか! 「うちよりうまい」となる場合もあれば、「うちのほうがうまい!」となる場合もある。おそらく後者のほうが多いだろう。なぜならうちのカレーはおふくろの味だから。

 いずれにしても同じようなカレールウで作られたカレーのはずなのにできあがりの味がまるで違うのには驚かされる。使う具が違い、調理プロセスのちょっとしたアレンジが違うだけでカレーは別の味になる。これもまたカレーの魅力だ。すなわち、日本の家庭のカレーは、同じ道具を使って違う味わいが家庭ごとに作られ、それが各家庭内においてはいつも変わらぬ料理として提供され続けるという宿命を辿った。

# 家庭のカレーと
プロのカレーの接近

 こうしてカレーは多くの日本人にとって特別な存在でもあり、興味の対象ともなったのだ。ところが、この家庭で作られるおふくろカレーにも近年、異変が見られるようになった。家庭のカレーの吸引力が弱まっているのではないかと危惧している。最大の理由は、核家族化や共働きの増加などにより、家族が全員集まって大鍋で作るカレーを食べる頻度が減ってきたことにあるのかもしれない。

 もうひとつ、原因がある。それは、家庭でカレーを作るおふくろのスキルが上がり、カレーのレベルが高くなったことにあると思う。カレーがうまくなったせいで吸引力が落ちた、というのは、ちょっと理解に苦しむかもしれないが、これはありえる現象である。

 昔は、ごく簡便なスタイルでカレーが作られていた。ところが、テレビや雑誌でおいしいカレーの作り方が披露され、レシピ本が世に出るようになると、カレークッキングのスタイルが変わってくる。現に水野家では、僕が中学生ぐらいのころに母親は玉ねぎをよく炒めるようになり、豚の角切り肉だった具を鶏手羽元に変更するようになった。そのほうがおいしくなるとの情報をどこかで入手したのだろう。

 こんなことはおそらく全国の家庭で行われるようになる。確かにカレーはおいしくなったかもしれない。ただ、「おふくろカレーがおふくろカレーであり続ける」ために大事だった要素は、「おいしかろうがおいしくなかろうが、同じ味のカレーが習慣的に登場し続けること」だったのだ。母親が知識とテクニックを身につけ、毎回、新しいトライアルがされるようになると少しずつカレーの味は進化していっても、「ああ、やっぱりこれがいつもと同じおふくろのカレーだよなぁ」という感慨には浸れなくなる。

 外で食べるようなおいしいカレーを家でも作りたい、というのは純粋な願望だ。そのための手法は色々とある。ただ、やはりカレー店を営むプロのシェフが作るようなカレーの味にはたどり着けないということなのだろうか。カレー店のようだけれどカレー店の味になりきれないカレーが家で出てくると、「これなら外でカレーを食べたほうがいい」となってしまうのだろうか。

 これらが家庭におけるカレーの吸引力を低下させている原因となっているんじゃないかと僕は思う。家庭のカレーがおいしくなるのは、嬉しいことでもあるし、寂しいことでもあるから複雑だ。おふくろカレーのあるべき姿とはどんなものなんだろう。お店で食べるようなクオリティの高いカレーが同じ味で安定して家庭で出るようになったら、またおふくろカレーが復権する時代がくるんじゃないか。

# 検索数から見る
カレーの地位

 料理レシピ検索サイトのクックパッドでは、ワードごとに検索頻度をカウントできるようになっている。〝たべみる〟という独自のデータ分析ツールでは、クックパッドにおける検索1000回のうち、どのワードに何回の検索があったのかをカウントしているが、その結果によれば、「カレー」のレシピが検索された回数は、2016年の1年間で平均5回(女性20歳~69歳)である。

 検索される料理のジャンルが幅広いとはいえ、1000回中5回という数値は、国民食というにはとても残念だ。さすがにラーメンのレシピを検索する人は少ないだろうから参考にはならないが、たとえば、同じ年のパスタが平均14回、うどんでも平均6回あることを考えると、家庭で作るカレーの人気に陰りが見えているのではないか、と不安になってくる。

 ちなみに2010年1年間のカレー検索回数は、1000回中平均7回というデータが残っているから、2010年の時点ですでに数値としては低いし、6年後に平均5回に減っていることから推測すると5年後や10年後がどうなることだろう、と怖くなる。

# 家庭のカレー復権のために
できること

 今、日本のカレー文化に危機が訪れているのかもしれない。カレーは原体験にいい記憶が残っているからこそ、日本の国民食であり続けてきたのだ。人々の好みが細分化し、それに伴って世の中にバラエティ豊かなカレーが次々と提案されていくのはいいことだと思う。でも一方でみんなが同じようなカレーを食べて熱狂することがなくなってしまうのは切ない。

 僕は時間が許すなら全国の小学校をまわってカレーの料理教室をしたいと計画している。お父さんやお母さんが同伴のワークショップでもいい。名前はもう決めている。「カレーの小学校」だ。そんな機会を本当に作れるのか、そんな時間が自分にあるのかは別問題として、小学生にカレーの魅力を伝えたい。カレーを作るって面白いんだな、カレーっておいしいんだな。カレーをみんなで食べるって楽しいんだな。そういう体験をしてくれれば、彼らが大人になったとき、また家庭のカレーが復権するときがやってくるかもしれないと考えているのだ。本当はそういう取り組みは財力も体力も十分にある企業が本気になって取り組んでほしい。それが企業の将来的な成長も支えるはずだと思うのだけれど……。

……つづく。
2017-04-09-SUN