COOK
調理場という戦場。
コート・ドールの斉須さんの仕事論。

第12回 自分を作るのは、自分で発した宣言。


『調理場という戦場』は、あとわずかで刊行予定です。
おそらく来週までには、発売の詳細をお知らせできます。
ぜひ、楽しみにして、お待ちくださいませ。

単行本の中から、今日、ご紹介するところは、
前回にひきつづきフランス一店目のレストランで、
働いていた時に、斉須さんが思っていたことなどです。

今と違い、外国に出て料理の修行することが
それほど一般的ではなかった時代に、
どのように慣れない外国暮らしを血肉化していったのか、
何に戸惑い、どのようなことに悩んでいたのか、
などについて、しゃべってくださっています。

少し長めに抜き書きいたしますので、
どうぞ、じっくりと読んでみてくださいね!





<※第1章より抜粋>


パリから四〇キロ離れた郊外に、言葉も使えずにいる。
毎日夜が明ける前から、翌日の仕事の直前まで働く。
あとは眠るだけ……。

人買いに買われたような気さえしていたのです。
どこで誰を信頼していいかを、知りたいと思いました。

何を言っているのかはわからないから、
我が身を託していい相手を、
そぶりや顔色や声のトーンで判断して賭ける必要がある。
そういう方向の判断力は研ぎ澄まされたかもしれません。

人がウソを言う時の雰囲気はよくわかるようになった。
それがわからないと、
自分はそのレストランでは生きていけないから。
目が見えない人が音には敏感なように、
別の感覚が研磨されたような気がします。
話すことで見えなくなってしまうものが
多いということにも気づきました。

どうやら、こちらが相手を理解するぶんだけ、
相手もこちらを理解してくれるようです。
ぼく以外にも、まだまだ料理の世界に入り立てで、
激流に流されないように
必死になっている人が多かったのですが、
彼らが時折見せる優しさには驚きました。

「激流を泳いでいる途中で、そっちこそ大変だろう?」
というような時にでも、苦しんでいるぼくに対して、
命綱とも言える投げ縄を投げてくれたと言いますか。
自分でも新しい環境に慣れるのに必死なはずだけど、
ぼくを迎え入れてくれて、笑顔で助けてくれた。
ぼくは言葉に不自由で、
感謝の気持ちさえ上手に伝えることができないのに。

あとになって、
ぼくはその頃言葉を喋れなかったけれど、
彼らは、ぼくの行動や生き方を
見ていてくれたんだとわかりました。
通じるものを見いだしてくれた。
「俺たちと一緒にやろうぜ、こっちにこいよ」
何人もの人が、そういう投げ縄を投げてくれた。
人買いに買われたような場所かもしれない。
だけど、まるで、ロッククライミングの最中に
少しは手をつくことのできる場所が
見つかったような気がしたのです。
日常生活上で責任をまっとうしていれば、
姿勢は言葉を超えて伝わるんだ。
涙が湧きました。
能書きではなく行動でわかってくれたことに、
打たれました。

フランスに行った最初の頃のストレスは、
朝が早いだとか眠いだとかいう肉体の疲労よりも、
精神的なものが多かったと思います。
「ここでの人間関係に順応して、
 うまくやっていかなければならないけれど、
 どうすればいいのだろう?」
「自分の思いが伝わらない。どうしよう?」
そんなように考えこむことが多かった。
目の前の仕事をできるかできないかということよりも、
チームメイトとの関係にとても疲れていました。
だから、最初の頃は、
ひとりになったらただ眠るだけだったのです。

ほんとうに精神的に疲れきっていました。
思いが伝わらないことが、
ものすごく、もどかしかった。
軽いノイローゼ状態だったのかもしれません。
狭い屋根裏部屋で、
ここだけでしか使えない日本語をつぶやいてみる。
「あいつ、わかってねぇんだよなぁ」
「そうだそうだ」
自分で言って、自分で答える。フランス語では、
自分の思いを自分に伝えることもできないので、
発狂しないように、眠る前にはひとりで日本語を使う。
そんな現実だったのです。

何も伝えられない頃からしばらく過ごすと、
「日本語が大事だな」と思うようになってきました。
いや、フランスにおいて
日本語が大切だというわけではありませんよ。
「日本人であるぼくの場合は、
 日本語の意味をしっかりと体得することが、
 フランス語でコミュニケーションする上でも
 重要になるのではないか?」
そう思ったのです。
自分の意志を明確に伝えたいともどかしく思うなら、
まずは自分の意志を、
自分で明確に迅速に把握している必要がある。
明快な日本語で自分の言いたいことをわかっている時には、
その言葉にフランス語をあてはめることが、
それほど難しいことではなくなってくるのです。

ぼくのように日本で生まれ育ったのに
日本語でうまく表現できないことを、
フランス語で伝えることができるはずがない。
日本語での表現が的確になれば、フランス語も的確になる。
ぼくの場合は、そのような方法で
語学習得をしていきました。
それが少しずつうまくいくようになった。
「言葉というものは、人と人とのかけ橋だ。
 自分とまわりが
 一緒に生きていくうえでの栄養剤でもあり、
 個人がやすらぐ場所でもあるのだなぁ」
そう思えるようになってきました。
人に言われた言葉をくりかえしたり、
意味を理解する作業が、自分なりの安らぎになっていった。

言葉は体を作るものだとも思っています。

大事だなと思うことは、
自分なりに言葉にして何回も反芻しますよね。
「そうだよな、こうやったほうがいいよなぁ」
それを体現することで自分の身になっていく。
他人から見た「ぼくの人格や能力」を作るもとは、
毎日内面に向けて問いかけている言葉ですよね。

つまり、自分を作っていくものは、自分で発した
「これからこうやるんだ」
という宣言なのではないかと感じているのです。

ノイローゼになりそうな状態の時に、
自分で自分にだいじょうぶだと言い聞かせる中で
「自分にとって、人間性の重しのような
 役割をしているものは、言葉なんだ」
ということが、とてもよくわかりました。

最初のお店は、料理に限らず、人に対する伝達力だとか
人間性だとか、いろいろなものを磨いてくれた。
料理技術と社会的なチームプレーとの両方を学べた。
振り返れば、働く以外には何もしていなかったですね。
ほんとうによく働いた。お店と下宿を往復するだけです。
ぼくがふだん眠るところは寮ではなかった。
職場と道を挟んで反対側にあるふつうの家の屋根裏部屋を、
オーナーが借りてくれました。

三畳か四畳ぐらいだったかなぁ?
ベッドをおいたら、あとはそのまわりに
すこしスペースがあるという部屋。
家賃は二七〇フラン。
五〜六百坪ほどの家に二家族が住んでいるのです。
お父さんたち夫婦と、娘さんたち家族。
三階建ての家のうえの、物置になっていた部屋に
夜中に帰ってくるのがぼくでした。

まず、照明がとても暗かったのです。
ヨーロッパの人はもともと必要なところしか
明るくしないのですが、それよりも更に暗い部屋……。
オレンジをぼんやり暗くしたような色で、
しかもひとつしかない白熱灯。
屋根裏部屋にひとりでいると、
何ともさびしくなってきたものでした。

窓はひとつだけありました。
空につながっているところの屋根に
ピタッとくっついている板が、窓になっていた。
板に棒がついていて、それを上にあげて、
つっかえ棒を差しこむと窓が開く。
窓をあけて、ベッドにゴロンと寝っころがると、
空が見えました。
夏の暑い時には開けて寝るのだけど、
夜に飛行機が飛んでいる様子を見られるのです。

「あの飛行機は日本行きだろうか」
「あれに乗ったら、帰れるのかなぁ」
思うに任せないことが日常で続くので、追いつめられると、
そんなことを思いながら空を眺めていました。
そのうち照明にも慣れて、日本に戻る頃には、
「日本の家屋はまぶしい。逃げがない。
 ダンスホールですかここは?」
とさえ思うようになってしまうのですけれど。

ぼくは本をとてもおもしろいと思うほうですが、
この頃には、本に飢えることはありませんでした。
本なんて、読もうともしていなかった。
毎日が新しい物語の中を生きているようだった。
自分が、自分なりの物語の主人公でした。
学ぶことは次々に見つかるし、やることはありすぎた。



             (『調理場という戦場』より)





(※つづきは、5月17日(金)に更新いたします。
  メールでの感想をいただけると、光栄です!)

2002-05-13-MON

BACK
戻る