COOK
調理場という戦場。
コート・ドールの斉須さんの仕事論。

第9回 舵取りをする余裕は、まだなかった。


「このページを読むと、自分の仕事のことを考えます」
というタイプのメールを、とてもたくさんいただきます。

仕事をしはじめる前の人も、キャリアを重ねた方も、
「自分の生涯の仕事は?と考えるきっかけになる」
と言ってくださる・・・。
不思議な共通点を感じながら、メールを拝読していました。

今日ご紹介する部分は、斉須さんの働きかけの時期です。
日本で数年修行をしたあとに、フランスに渡った当時、
どのようなことを考えて、どう働いていたのでしょうか?
では、どうぞ。





<※第1章より抜粋>


もともとぼくは
日本にいた頃、時間があればあるだけ、
一一時間も一二時間も寝てたような人間でした。
だから余計に、フランスにいった数日で
料理人の本性がわかったというか、
「こんなにたくさん、働いているんだ」
というのを感じましたね。
料理場で地位が上がれば上がるほど、
最前線に立たされる。働く量も多くなる。
これは優れたレストランならどこでも常識だと思いますが、
当時の日本の料理界の常識とは逆だった。

フランスに行って最初に働いた
「カンカングローニュ」のオーナーシェフは、
自分の父親よりも年齢が上でした。
その当時ですでに六〇歳のおじいさんだった。
だけど、三日ぐらい寝ずに働いても平気なのです。
一四歳から料理をやってきているオーナーシェフが、
平気で徹夜をする環境にいる。
しかもケロッとこなしてしまう。
基礎体力と言うか、血液が違うなあと実感させられました。
それに比べたら、ぼくは何とか細いことか……。
最初のうちは、そういうことばかり思っていました。

六〇歳のオーナーシェフ・ケラーさんが
そんなに働いていても平気なのは理由があるのです。
後に本人から聞いたら、彼は第二次世界大戦の時に
ナチスの捕虜にされていたと言っていました。
二七か月の間カゴのような収容室に入れられて、
一日の食料はパン一個と一杯の水だけだった。
仲間は、栄養失調や内臓の病で次々に死んでいく。

ケラーさんが生き残ったのは、支給されるパンと水を
一日にきちんと三回に分けて食べていたからで、
他の人は一度に食べてしまっていた……
そんな体験の持ち主だから身体も精神も強靱なのです。
「いつ銃殺されるかわからなかったんだ。
 それに比べたら、眠らなくても
 死ぬことはないじゃないか、マサオ。
 夜中にお客さんが来たところで、銃殺はされないもの」
そんな言葉を聞いて、何で彼が
そんなに元気なのかがわかったような気がしました。
 
フランスに着いた日の次の朝七時から四年半は、
いつ寝ていつ起きていたのか、あんまりよくわかりません。
その時まかせの仕事の嵐の中に突入していたから。
「やることは常にある」という状態で、
どんどん時間が過ぎていったという印象です。
だから、まわりの風景もよく覚えていない。
仕事場と下宿とを行ったりきたりするだけの生活だった。
レストランのあるラニーという
小さな町の全容さえ、把握することがなかった。
仕事場のことは、今もはっきりと覚えています。

ぼくがフランスに行って四日目の朝には、
ソーシエ(ソースを作る係)が荷物を抱えて消えていた。
ソーシエは重要な係です。でも夜逃げしてしまった。
「こんなことも起こるのか」と思っていたら、
オーナーのケラーさんが
「マサオ、代わりはお前だ」と言うんです。
足が震えた。
言葉もわからないし、お店の料理も少し見ただけ。
どんなやり方をしているのかもわからない。
オーナーは「やれ」「やれ」の一辺倒……
結局、ぼくがソーシエをやることになりました。

ギャルソンがぼくに注文の品を言ってくれても、
まったく聞き取れなかった。
だからメニューに番号をふってもらって、
二番とか一六番だとか、
近くにいる若い子に指で示してもらって
急場をしのぎました。
その日から四年半後にぼくが辞めるまで、
ソーシエはずっとぼくでしたね。

翌日の仕込みや注文の打ちあわせがあるから、
十二時前に仕事が終わることはなかった。
週に二回か三回、市場で買いだしのある日には、
午前三時半に市場に着いていなければならない。
その場合には下宿を二時半に出る。
「三〇分しか寝ていないのに」なんて日もしばしばで、
「ぼくは、いつ倒れるのかなあ」と思っていました。

市場に行く日は二時には料理場に降り、
毎回必ずコーヒーを入れてオーナーを起こしに行きました。
オーナーが降りてくるまでに料理場に先に戻り、
コーヒーカップに注ぐ。彼と一杯ずつのコーヒーを飲んで、
二時半に出発です。市場にも一時間かかりました。

フォルクスワーゲンのワゴン。
オーナーとぼくとオーナーの犬が乗りこむ。
この犬は家族以上にかわいがられていたから、
いつも必ず乗っているのです。
食事もフィレ肉の筋のないところを与えられていた。
このルギンバという名の犬の食事を作るのは、
ぼくの役目でした。
最初のほうは、まだまだ話せないから、
市場への道は、「長い長い一時間」でした。
基本的に、無言。

オーナーは、犬をかならずぼくのヒザに乗せるのです。
しかし、この犬が、ぼくにまったくなつかない!
一時間じゅう、噛まれないように工夫することで
精一杯でした……。

ぼくはある時にこの犬に噛まれてしまい、
腕が膿んで動けなくなってしまったことさえ
ありますからねぇ。
ほんとうに要注意の道中でした。
犬に噛まれた腕が膿んだ時には、ケラーさんに
「漂白剤を水に薄めてそこに手を入れろ」
と言われました。
そうしたら三日ほどで治ったのです。

別の時にぼくが調理場でクマンバチに刺された時には、
「パセリの軸を手でもんだあとに、
 ワインビネガーと一緒にすりこめ」
とオーナーは言っていた。
そうしたら針が出てきたのです。
民間伝承でなりたっているというか、
知恵袋のような人だなあと思いました。

市場に着くのは朝の三時半です。
「魚や生鮮品の市場は
 三時半にはじまるけれど、野菜は九時から」
というように、市場の開く時間は、まちまちでした。
お昼前までに魚の仕込みをしなければいけない。

だから、市場への買い出しの日には、
パリから四〇キロ離れたカンカングローニュに、
一度戻ってくるのです。
それが八時半ごろ。
もうお店には若い人が来てますから、
彼らに生鮮品を渡し、下準備を任せて、
ぼくらはもう一度市場に向かう。
野菜を買いつけてもういちど
お店に帰ってくるのは一二時でした。
サービスのはじまる時間です……
眼が覚めてからサービスがはじまるまでに、
すでに十時間ぐらい働いているわけです。

買いつけが終わって係の人たちが
荷造りをしてくれている間に、
市場のカフェでオーナーとふたり、
カフェオレを飲みながらクロワッサンを食べました。
オーナーがひとつしか食べないから
ぼくもしばらくはひとつだけ。
足りなくてお腹を空かせていたのをよく覚えています。
半年後にオーナーが気づいて
「もっと食べるか?」
と言ってくれたので、そのあとからは
毎回三つのクロワッサンを食べましたけれど。

オーナーが市場に行くのについていくと、
昔オーナーの同僚だった友達が、
それぞれひとかどの人になって来ているんですよ。
料理長になっている、
オーナーになっているというような人たち。
それぞれがお店の若い子を連れていました。
人とのつながりを折り目正しく大切にしているのは
すごいなぁと思いました。
例えば、ボールペンの「Bic」の社長は、
ケラーさんの見習いの頃の同僚だったそうです。
跡継ぎだったので、親が亡くなったあとに
料理をリタイヤして社長になった。
ボールペン会社の従業員を
バス何台もで引き連れてきてくれて、
「会いにきたよ」と食事にきてくれていました。

そういう豊かな人間関係を垣間見る機会は、
たくさんありました。
朝の市場でクロワッサンを食べていると、
オーナーの知り合いが話しかけてきます。
「あそこのあれが、すごく安いよ!」
「あの地域から出ているものがいま大量に出ている」
リアルタイムに食材の話を聞けたことがためになったし、
それとオーナーの交友関係の堅牢さと言うか、
ネットワークやコネクションの作り方を
学んだような気がします。

肉体的なきつさに加え、
ぼくにとってのフランス料理とフランス人にとっての
フランス料理とが違うということでした。
フランス料理は、フランスの人にとっては、
「いつもそこにあるもの」でした。
その「当たり前にある料理」としての存在に、
いつもすごく押し流されそうになっていました。
ぼくにとってのフランス料理は、
意識して突進していかないとわからないものだったから。

最初の三年は、そんなような
逆流に飲まれないようにするだけで精一杯だった。
流されていたらいけないけれども、
流れには乗れるぐらいに自分で流れていく。
それで精一杯。
舵取りをする余裕は、まだ、まったくなかった。



             (『調理場という戦場』より)





(※つづきは、5月5日(月)に更新いたします。
  メールでの感想をいただけると、光栄です!)

2002-05-03-FRI
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