坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第157回 仏を運ぶ

ほぼにちは。

ミッセイです。
栄福寺にやってきた時は、
ぬいぐるみみたいだった
犬のサクラも、



だいぶ、お姉さんになってきました。



サクラと散歩によく
栄福寺のある山を歩くのですが、
サクラを飼い始めるまでは、
こんなに頻繁に(というかほとんど)
山に入ることがなかったので、
気付きにくかったんですが、

山って、かなり気持ちいいよー。
緑がいっぱいあって、光が差して。







そして、
自分は山に住んでたんだ!

と実感しました。

都会と田舎どっちが住みやすいか、
みたいなことを、
いろんな所で、
いろんな人達が、
書いたり論じたりしていますが、

たぶん田舎にかなり長い間、
住むであろう僕としては、
山っていうのは、発見だったなぁ。

そういえば、時々、
お寺の住職のことを、

「山主(さんしゅ)さん」

って、呼んだりもするんだよ。
お寺には山号という、
山の名前が付いてるからね。

でも、
これを読んでいるほとんどの人達は、
“山主さん”ではないと思いますが、

“ぬし”みたいな
“所有”という概念から、
時々、すっと離れて、

山を歩いたり、人と接したりとすると、
なんか、楽になったり、
おもしろくなったりすることが、
あるのかもしれないね。

「あっ、ここは国有林だな。」

とか、

「この山は田村のじーさんの山だ。」

とかいうのは、
ひとつのはっきりとした、
事実でもあり得るけれど、
その反対の事実だって、

ちゃんと存在するんだよね。

「なにかを所有するおもしろさ、親密さ」

というのも同時に、
しっかりとした大切な感情として、
あるんだと僕は思います。

この所有から離れるというのが、
仏教でいうところの、
執着を離れるということの、
ひとつかもしれないけれど、

僕はそう断言するよりも、
「所有を離れるという“成分を持つ”」
という生き方をできればな、と思います。

「ある意味で自分が
 所有から自由であることを、
 理解する。
 裏を返せば、
 つまり自分がなにも
 所有できないという
 多くの中のひとつの事実を体感する。」

ということだと思うんです。

宗教って、
自分や世界のサイズを正確に知ろうとする、
あいまいな部分を持った試みだと思うんです。


何度も四国札所に
お参りをするお遍路さんの、
納経帳は、
新しく納経帳をおろさずに、
「重ね」といって、
同じ納経帳に朱印だけ加えて、
押してもらうことが多いんです。



今日、僕が納経所に座っている時も、
「重ね」のお遍路さんが来られました。
2度目のお遍路のようでした。

字を見ると、
じいちゃんの字なんだけど、
字がかなり「若い」字だったので、

「この前は、かなり前にお参りされたんですね。」

と聞くと、

「うん。
 20年以上前に、
 私の母がまわった納経帳なんです。

 彼岸と盆には、
 この納経帳と四国遍路の軸を出して、
 毎年毎年、お経をあげてたので、
 なんか思い出して、
 自分の新しい納経帳を作らずに、
 母の納経帳で遍路をしているんです。」

ということでした。

今日、
話していた別の
おばちゃんのお遍路さんの、
誕生日は、4月8日の花祭りで、
お釈迦さんと同じということでした。

「もう、いい歳だし、主人と、
 生涯、最後の旅行かなと思って。

 この歳まで、幸せに暮らせたので、
 お釈迦さんにお礼に
 四国に行かなきゃ、って思ったの。」

今日は、なんだか、
印象的なお遍路さんと、
たくさん話した気がします。

「遍路」は“修行”という言い方をよくします。

「今日は、雨で大変ですね。」

と歩いているお遍路さんに、
声をかけると、

「ま、修行ですから。」

と答えられる方がとても多いです。

そして、それはたぶん、
とても個人的な要素を多く含んだ、
行為であるんだろうと想像します。

僕は、最近、それに加えて、
そして、
かなり多くの側面の中の、ひとつとして、

「仏教(や空海)を運んでいる。」

のが、お遍路さんなんじゃないかと、
よく考えます。

白い装束を着て、
お経をあげて、

仏の教えを運ぶ。
すこしだけでも、運ぶ。

それは、個人という範疇が、
あいまいに少し崩れた
チームプレイのようにも感じるんです。

「ささやかな三蔵法師」

みたいな漠然としたイメージを、
よく思い浮かべます。

だからといって、
僕が、

「お遍路さんは仏様です。」

というような思いだけを
持っているわけでは、
決して、ないんだけどね。

なにかを画一的に決めつけることは、
のっぺりとしていて、
不快ですし、
第一、 正確ではないと思います。

でも、

「仏を運ぶ」

というようにお遍路さんを、
捉えてみることで
発生してくる、

僕も、お遍路さんも“うれしい”仕事。

というのが、
いくつか頭に浮かぶ気がします。

「合掌して、納経帳を受けとる。」

なんかも、
すぐできる、
(大概そうしていますが)
大きな仕事のひとつだと、
僕は、思ったりします。


「自分を救うことができるのは、
 往々にして、誰かを救えた時だ。」

例によって記憶ですが、
僕はよく、この言葉を思い出します。
(誰も救った記憶がないのが残念なのですが。)

「救う」を、
いろんな言葉に代えてみて、
時々遊んだりします。

「自分が微笑むことができるのは、
 往々にして、誰かを微笑ませた時だ。」

とかってね。

でも最近、
僕はむしろ、

「誰かと深く関われるのは、
 往々にして、
 自分と深く関われた時だ。」

に取り組もうと考えています。

もっと単純に、

「誰かがうれしいのは、
 往々にして、
 自分がうれしい時だ。」

というのも、なかなか、いいね。


ミッセイ


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2004-04-15-THU

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