坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第106回 常楽会にて、いろいろ考える。

ほぼにちは。

ミッセイです。

僕の住む地方の、
多くのお寺にとって、
一番大きな行事である
「常楽会」(じょうらくえ)
という行事に、
今日、行って来ました。

近くのお寺で、
持ち回りで行われるので、
7年に一度の行事です。

昨年は、
栄福寺が当番寺で、
僕の住職お披露目の儀式である、
“晋山式”と一緒に行われました。

「あれから、一年、たったんだなぁ。」

と、思いました。

前年の当番寺の住職には、
特別な役割があります。

みんなは、
次第(しだい、プログラムのようなもの)
に従って、一緒にお経を唱えるのですが、
僕だけが、中央の壇に上がって、
一人で節つき(メロディーに法則性のある)
のお経を延々、1時間ぐらい唱えます。

通常、法会の中で、
壇に上がる(登壇、とうだん、と言います。)のは、
一番、えらいお坊さんなのですが、

“前年度の当番寺の住職”

という決まりに従って、
ダントツに一番若い僕が、
登壇しました。

式が終わった後、
全員にお茶を入れて、
配膳していたら、
(若い人の仕事です。)

「ミッセイさん、登壇はするし、
 お茶はつぐし、
 今日は大忙しだね!」


とお坊さんから、冷やかされました。

今日の法会では、
「中曲行道」(ちゅうきょくぎょうどう)
といって、壇を中心にして、
お坊さんがお経を唱えながら、
グルグル回る、
読経スタイルも行われたのですが、

回りを、
お経を読むお坊さんに囲まれて、
僕自身もお経をあげていると、

「ああ、僕は坊さんなのだな。」

と、強烈に、じんわり思いました。
そうだ。ぼくは、坊さんなのだ。

それから、何百年もの間、
続く行事の中で、
釈尊(おシャカさん)の偉業を称える、
言葉をずーっと、唱えていると、

「ホント、保存装置だな。すごいなー」

という思いを再認識しました。

行事の後は、
普段、会うことの少ない
お坊さん同士の会話になります。

「本尊の修復をしたいんだけど、
 相当、費用がかかるんだよ。

 秘仏であんまり、
 調査したことないんだけど、
 平安(時代)は下らない事は、
 間違いないから、
 なんとか、
 文化財の認定を受けて、
 補助してもらえないかなぁ。」


「それって、まず、
 町の教育委員会を通すんじゃない?」


みたいな話です。

その話の流れで、

「やっぱ、仏像は、拝む人に、
 見えるように、置くべきかなぁ。
 って、最近、考えるよ。
 
 “秘仏”とか、いろいろ、
 考えることは、あるけどね。

 でも、参拝に来た人は、
 やっぱ、実際に、観ながら、
 拝みたいものね。」


という話題になりました。

「第28回 “秘仏”について考え中」

でも、書きましたが、
僕は今のところ、
現在のスタイルのまま、
秘仏を厨子に入れて、
要請があっても原則的には開帳しません。
(今の僕は、ということです。)

これは、
僕の“ 本尊観”の提示でもあります。

「本尊は、本尊を含んでいるけれど、
 本尊全て、ではない。」


しかし、このロジックは、
本尊を“本尊”として、
公開した場合、
ある人にとっては、
有効でなくなる場合がある。

というのが、僕の考えです。

「あー。これが栄福寺の本尊さんね。
 顔が優しいなぁ。
 観られて、よかったね。」


でも、このお坊さんの話にも、
“わかる”部分があります。

多くの時間のこもった、
仏像はお寺の提供できる、
「思い」の大きな要素なので、
公開すると、しないとでは、
大きく“迫力”も違うでしょう。

あるものは、
全部、届けたい。提供したい。

という気持ちは、
僕にもあります。

密教では、

「本質は“表現”できる。」

と考えます。

本尊様は“本質”の、
ひとつの“表現”なんだろうか?

難しいね。
正解、不正解という話では、
ないんだろうけどね。

でも、やっぱり、
本尊的要素は、自分の中にもあり、
自然の中にもあり、
他人の中にもある。

というメッセージは、
届けたい。

現代アートなんかをみていて、

「これって、
 メッセージの
 いろんな形の、
 プレゼンテーションだなぁ。」


と思います。
“その道”の人に言わせたら、
あまりにチープな一般論なのかもしれないし、
かなり的はずれな話かもしれませんが、
正直にいって、そう思います。

しかも、

“実体のかなり、あやうい”

存在や思いの、
プレゼンだと感じます。

「なにを、そこまで、そんなことを。」

と、お気に入りに作品に対しては、
最大限の賛意をこめて、
あきれて、笑ってしまいます。

そして、
友達の芸術家でも、
物好きの貴族でもない、
僕の目に触れた時点で、
この人は、
そのプレゼンに、
ある意味で“勝った”のだなぁ。

と思います。

「よかったね。
 僕も、あんたが勝って、うれしいよ。」


と、時々、思います。

―例によってー
誤解を招く言い方かもしれませんが、
僕は、こういう、チャレンジが、
宗教、特に伝統宗教にあってもいいと感じます。

「現代アートっぽい、おしゃれなお寺。」

なんてものを、望んでるわけじゃないよ。
OKだよね?

例えば、
僕が、本尊観を、
もっと明確に提示したいとしたら、
いくつかのスケッチを頭に浮かべることができます。

まず、厨子を複数、用意します。

できれば5〜6個。

それを、
今ある本尊の厨子の位置から、
縦に並べます。

参拝者によく見えるように。

「その、どこかに、本尊は、あります。」

あなたは、何を、観て、
阿弥陀如来を思い浮かべ、
拝みますか?

僕は、
“巻物”なるものを作り、
そこに、書き記します。

「いつ、いかなる場合であっても、
 どの厨子も、開けることを、禁ず。 密成」


不届きものの、住職が、ある日、
それを、開く。

どこにも、なにも、入っていない。

どこだ。阿弥陀如来様は?

天井裏に厨子、発見。
本尊、阿弥陀如来様、開会。

「俺達は、何百年も“なに”を、
 おがんできたんだろう?」


これは、もちろん、
“例えば”の物語。

いろいろ、誤解しないでね。
たのみます。

でも、そういう、
メッセージの提示への
クリエイティブな意志。

というのは、絶対、すてない。

いろんな人とか存在とか
“思考”なんかと一緒に、
僕が携わる、伝統宗教の世界でも、
“伝える”方法を、
いろいろと探したいです。

僕の考えは、
あまりにも“思い”が、
前面に突き出た、
「理想論」
なのかもしれないけど、

そういうのを、
現実に起こせる可能性を持った、
楽しい所に僕は、今、
偶然にも立っていることを、
強く、感じるのです。

ミッセイ

2003-04-27-SUN

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