坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第92回 宗教という保存装置

ほぼにちは!

ミッセイです。

そういえば、
この連載で、
栄福寺の写真って、
登場したこと、なかったよね?

いい天気だったので、
撮ってみましたよ。



“坊さん”の舞台の多くは、
ここで展開されています。

だいたい、
どんなガイドブックにも、

“山あいの、こぢんまりとした寺”

と、載っているんだよね。

正面にあるのが本堂で、
右手にあるのが大師堂です。
大師堂の干支の彫刻が、
なんか楽しい雰囲気で、僕は大好きなのです。



みんなも、栄福寺に来たら、
十二支を探してみてください。

お堂の裏とかにも、あるので、
頭を打たないように、
渡り廊下をくぐって、観てみてね。

でも、
羊は「隠し彫り」している、

という言い伝えがあって、
姿が見えません。

住職の僕が、
その場所を知ってるか、どうかは・・・、
秘密です。


ところで、
毎年、訪れる、
何万人ものお遍路さんを、
毎日、見ていると、

宗教というのは、
いろんな意味をひっくるめた、

“考え”


長い、長い、時代にわたって、
“長期保存可能”
であるという、
大きな性格を持っているなぁ、
と思います。

これは、
“いい面”を、
たくさん含んでいる、
と、僕は考えるんです。

いろんな時代に、
何人もの宗教家が、登場して、
その信者は、今でも、
その信仰を、
全くのオリジナル通りではなく、
分量も、
全部では、ないにしても、
なにかしらの「意志」を、
継いでいると思います。

ひとつ、ひとつの宗教が、
あるいは“宗教自体”が、
「いい」「わるい」とか、
「好き」「嫌い」という
話では、なくて、

今、残っている
宗教のいくつかは、
“宗教”という形を、
採らなかったら、

その「アイデア」や「思想」、
「宇宙観」なんかは、
何千年、何百年と、
続いたのかなぁ、と考えると、

「そうは、いかなかったかもしれないな。」

と思うんです。


ある人が、“いいこと”を思いつきました。

それは、とても“特別だ”と感じた。

そして、
“自分が死んだ後でも、役に立つ”
と考えた。

長い、長い間、“残したい”と思った。

それが、結果として、
「宗教」になった場合も、
多いんだろうけど、

僕の想像では、
意図的に“入れ物”として、
宗教を使用した人も、
少なくないと、思うんです。

そして、その人達は、
とてもカンが鋭いとも、思います。

いい、わるい、は
僕には、今は、わかりませんが。

お遍路さんと、お話したり、
拝んでいる姿を見ていると、

たぶん、普通に生きていたら、
“哲学”や“思想”、
“宇宙”とか“空”
なんてことが、

絶対に生活の中に
登場しないタイプの人達が、
(僕も多分にそういう性格を、
 持っています。)

そういったことを、
とぎれ、とぎれにでも、
思っていたりします。

弘法大師という方が、
どのようなスタンスで、
“宗教”
(という言葉自体が、
 比較的、新しいんですよね。
 なんというか、彼の
“考えて”“実現しようとした事”
 全部、ひっくるめて。)

と、向かい合っていたかは、
誰にも、
正確には、知ることはできませんが、

「宗教」というスタイルを、
持っているからこそ、
伝わった重要なアイデアも多いし、
伝わった人達も少なくない、
と、僕は思います。

僕が、今、話した、
宗教の
「有効な保存装置」みたいな性格が、
あながち見当はずれで、
なかったとしたら、
歴史の流れの、
後ろと、
前を、
ぴっ、と見て、
こういうことが言えると思うんです。

「今、残っている宗教には、
 宗教以外の
 “メディア”“スタイル”“学術”が
 残すことのできなかった、
 タイプの有効な、アイデア(のようなもの)、
 が、残されているのかもしれない。」

「今、とても、大切な事を、
 確信したら、
 宗教という物語に、わかりやすく、
 続きを綴ることで、
 新しい、繋がりが、
 時代を超えて、
 発生するかもしれない。」

ということです。

だから、みんなとも、
もっと、
宗教の話ができるかもしれない、
と、僕は、
思っています。

僕は、「宗教」を「職業」に、
しているので、
見方によれば、
自己弁護的に聞こえるかもしれませんが、
できるだけ、正直に書いてみました。


“宗教”という言葉は、
一生、考え続けることだろうね。

ミッセイ

2003-02-10-MON

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