坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第42回 今はまだ、よくわからないけれど。

ほぼにちは。

ミッセイです。

さっきNHKのトーク番組で
「上田紀行さん」という文化人類学者の人が
話しているのを観ていました。

すごい、おもしろかった。

なんとなく
好感を持っていた
アナウンサーの旦那さんであるらしい。

彼は1980年代に
「癒し」という言葉を
意図的に、使い始めたであろう人でもある。
らしいです。

それはともかく。

僕が興味を持ってる
カウンセリングの技術なんかは
“うさんくさい”宗教に対して
“ナチュラル”に接して欲しい、
場面でのツールに成り得る
と僕は感じているわけなんです。

でも、彼は
スリランカなんかでの“お祓い”
とかの体験を通して
こういった一見、うさんくさい
伝統的な呪術的行事なんかが
思いもよらない“実質的”効果があって
日本でも求められているんじゃない?
ということを語っておられました。

“密教”ていうのは
その大きな特徴に
「なんでも取り込んじゃう」ってのがあって
その中には、民間信仰とか、呪術とか土俗の神々とかが
入り込んでいるわけです。
そういう意味でも
“真言僧である僕”に大きなメッセージがあったなぁ。

こんな風な事も言ってられた。

「除霊祈祷の中で
 
 お供えをもらった悪魔がハッピーになる。

 回りで踊っている村人がハッピーになる。

 拝んでもらった僕がハッピーになる。」

(文中の上田さんの引用はミッセイの記憶が
 頼りなので一部、正確ではないかも。)

なるほどなぁ。
「真のインターナショナルには
 真のナショナルしかなれない。」
みたいな格言が耳を通り抜けていった
記憶があるけど、
結構自分の領域の中に
外に向かって自分が探していた物が
あるって場合もあるんだろうね。

密教は「五感」を重視した方法論を
重視します。

修法の中で
手に印を結び
真言を口にし
イメージを頭に浮かべ
香のにおいを感じ
鈴の音を聴きます。

心身がカタルシスを感じやすかったり
いいバランスを保つ
方法を経験的に知っていたのかもしれない。

それを
みんなが参加できる
呪術的行事、祭りなんかに
活かしてゆければ(復興できれば)
いいメディアになれる可能性が強くなってくるかもしれない。
イトイさんが「ダーリンコラム」で触れられていた
“死の提供”なんかのサービス業としての
可能性もあるよね。

そのテレビでは
スリランカの村人達が
エンターテイメント的要素を
強く持ったその行事に
何十時間も、嬉々として参加しているところを
映し出していました。

でも
“その要素”が今の僕たちに
“エンターテイメント的”要素があるかと言えば
皆無でしょう。たぶん。

「いやっ、オレ、行ってみたいよ!」

って人多いでしょうね。
僕も行ってみたい。
ケチャだって踊ってみたい。

そうじゃなくて
自分たちを“土俗民”としてみた場合
クラブのパーティーではなくて
テレビの「ガチンコ」ではなくて

“その場所”に向かうモチベーション
を発生させなければ
メディアには成り得ないと思うんです。
日常として、生活として。

かといって宗教儀式を
“現代風にアレンジ”したものに
成功したパターンは少ないでしょう。

でも、なにかあると思うよ。
宗教や土俗信仰の中には。
まだ、よくわからない。
なにかしたい。うーん。

重要なポイントは
「答えを設定せずに、自由に考えて
 楽しめること。よきアドバイザーがいること。」

だと感じています。

一人、一個
好きな匂いを持ち寄って(お香とか、花とか茶とか)
“死”について本堂でミーティングする。

とかでも
いいと思うんけど。

「次はタミ子さんが作ったジャスミンティー!
 お題は“愛猫 ポン吉の死に触れて”でーす。」

「パチパチパチ。チーン。」

だめか。

わかんない。

よく、そんな、くだらん迷いの中で
僧侶が務まるなぁ、と
思いますか?

でも、僕は儀式や葬儀、修法の中では
100パーセントその世界観を受け入れた
自分(密成)を物語に委ねます。

でもミッセイさんや、アユム君は
いじけながら、
みっともなく、大笑いしながら
いろんなモンを探しています。

ちょっと調子よすぎるかもしれないけど
それが今の僕のスタンスです。

ミッセイ

2002-03-24-SUN

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