坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第33回 再び“信仰”について思う

ほぼにちは。

密成です。

今日は隣の札所の行事に
参加してきました。

そこのお寺の御住職は
「柴燈護摩」(さいとうごま)といって
野外で護摩(火を使う修法)を修されていましたよ。

火の粉が飛ぶので加行(けぎょう)の時の
木綿の法衣を久しぶりにつけました。

普段はじいちゃんの絹や紗(しゃ)のです。


ちなみに加行中の数珠は
“安価で吉祥木”である
「かや」や「梅」の木などしか
許されませんでした。

「水晶」なんか持っていったら
死ぬほど怒られますので、止めときましょう。

それと、時々
「護摩を焚く(たく)」という言い方を
する人がいますが

護摩という言葉自体が「ホーマ(homa)」
というサンスクリット語が語源で
“焼”という意味があります。

だから「護摩を修(しゅ)する」とか
「行(ぎょう)ずる」
と言ったほうが
正確でスマートです。

密成1分メモでした。

というわけで
お寺さんに行ってきたわけですが

何を隠そう、僕は
お寺を観るのが大好きです。

だから、だいたい早めに行ってじっくりと
古いお地蔵さんなんかに手を合わせます。

どこに行っても一番若いので
早めに行かなければいけない(と僕が思う)
というのも理由なんですが。

ところで
僕はだいたい“2番目”を狙って登場します。

お寺さんの行事というのは
だいたい、どこのお寺でも
てんやわんやの忙しさです。

そこで“1番目”に
到着すると「早すぎたかな?」
と申し訳なくなります。
(つまり居心地も悪い)

それで2番目ぐらいがいいな、と思うわけです。

でもお茶を入れるのも僕の仕事なので
1番も捨てがたいですね。う〜ん。

これ読んでる7〜8割の人は
「気にしすぎ!」と思ってるでしょうが
学生時代、僕も遅刻常習犯でした。

でも、だいたい性格がズボラなので
時間ぐらいはちゃんと守りたいと
考えるようになりました。

いつまで続くことやら、ですね。

今日もお地蔵さんが並んでいるのを
ボーッと眺めたり
参拝者の人を遠くから観てたりしながら
考えたのは

またしても
“僕たちの信仰”についてです。

これは“一生もの”の問いかけですね。

年輩の方が中心になっている
巡拝グループに混じって拝みながら
(そして、その迷いのない表情を観ながら)

僕たちの世代にとって
“信仰”というものが
どういうスタイルになるかを
なんとなく、思いました。

もちろん、既存のスタイルも
並行してあると思いますよ。
(僕の中にもあります)

世代によって全てが変わる訳じゃないよね。

ある小説家が
オウム真理教事件に言及して

「彼ら(信者)にとって自我を教祖に預けてしまうことで
 楽になった。
 自分でコントロールする必要がないんだから。」

といった意味のことを書いていたと記憶しています。
(引用が性格ではないので、あくまで
 “ある小説家の話”でお願いします。)

僕も自分だけの従うべきルールみたいなものを
自分の中に探し続けた時期がありました。

これは普通のことだと思ってたんです。

「自我」は「ほとんど全部」自分がコントロールすべきだ、
という考え方がね。

でもこれって「時代特有」のものかもしれないよ。

えーっと
つまり、ここまで
“自由”を一般の人が与えられた時代って
結構ないと思うんです。

“正しいこと”、“従うべき事”のモデルって
もっと単純で共通理解で数も少なかったと。

それが、数も多くなって、あやふやで、フリーになった。

これは基本的に“いい事”だと思います。

そう、思わない?

でもそれを、自分で獲得する事って
僕たちがなんとなく考えてるより

ずっとヘビーで難しいことです。
最近そう思う。

そこに「宗教」とか「信仰」という
“価値観”がアドバイザー、ヒントとして
参加する可能性があると思います。

それと自分が掴んだものを
ミックスさせて対話させる。

それが宗教の全部じゃないよ。

でも重要な1部分になると思うんです。

「自分っていう存在って
 とっても宇宙的な存在で
 宇宙って結構、オレだよな。」

ブサイクでも、かっこ悪くても、
まず自分の言葉で発してみる。

そして照らし合わせる。

考える。

その行為が、僕たちが生きているという行為を
底の方から暖めてくれるとしたら

ほったらかしにするのは、“惜しい”と思うんです。

「じゃあ、“思想”と一緒じゃん。」

とあなたは言うかもしれない。

僕も今、セルフ突っ込みしました。

でも、なんとなくですが、信仰って
“頭がいいふりしなくていいもの”だと思います。

もっと“身体的”な感じ。

「感じたんだから、そうなんだよ。」

同じ理由で、すごく危険な面も多いのは
僕らが見てしまった通りです。

だからこそ
色んな立場からの
意見交換が必要だよね。

戦争やテロなんて
一番、お呼びじゃないんだよ。

だからといって
なんでもかんでも
「意見交換」できると言えばそうでもなく

“音楽”という範疇の中に
パンクロックファンもクラシックファンもテクノファンも
いるようなもんです。

出会えれば最高だけど、そうでなくても不幸じゃない。

クレバーな方法論と冷静な視点が必要です。

そんな意味で
みんなからもらっているメールって
実はすんごい重要で平和的な宗教行為という気がしてます。

僕にとって。

みんなにとって。

どうでしょう?

ミッセイ

2002-02-24-MON

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