流動的な知性は
いかなる機能にも属していませんし、
とどまることを知りません。

ところが一方で、
人間は、言葉を使って、
動いていくものを「ピン」で留めないと
そのものを理解することが、できない。

たとえば「木」「山」「人」‥‥というように
なにかを指し示すとき、
わたしたちはかならず名詞を用いますが、
これを使うことによって、
動き変化していくものを
「ピンで留め」、理解をしているのです。

われわれホモサピエンスの
こころの根源をつくっている
流動的知性というものは
つねに、動き回り
こころの根本をかたちづくります。

変化して動きまわり、
姿を変えていきますし、
他の領域のなかに
どんどん横断的に入っていってしまう。

自分たちのこころの本質をなしていて、
ものを考えたり、
感情を抱いたりするたびごとに、動き出す。

ところがそうした
縦横無尽に動き回る流動的知性は
思考によって捉えることができないし、
ましてやピンで留めることすらできません。

ですから、本当に不思議なことですが、
わたしたち人間とは、
自分のこころの本質をつくっているものが、
自分の思考や感情の外側にある、
ということになってくるのです。



わたしたちは
自分のこころのなかに
自分を越えたものを持っており、
その思考を越えたものは
つねに流れ、動き、そして増殖していく。

流動的知性とは
こころや思考や感情のはたらきから、
つねに溢れかえっているのです。

言いかえると、ホモサピエンスは、
そのこころのなかに
「過剰」を抱えた人類として、出現した。

そして、そのことによって
宗教や芸術を発生させ、
そして今日のような経済活動を
つくり出す生きものとなったと
考えることができるわけです。

まことに、不思議な生きものです。

そして、この「過剰した部分」こそ
旧石器時代に
ホモサピエンスという、
私たちの生活の痕跡を築いた人びとが
最初に直面した大きな問題でした。

つまり、その当時の人びとは
現在の私たちがと同じように
すでに完成した言語を持ち、
感情生活には、
多少ラフなところはあったかもしれないけれど、
しかし、わたしたちと同じように
笑い、喜び、悲しみ、泣く、
そういう生物だったのだろうと思われます。



もしも人間のなかに
溢れかえる、過剰する流動的知性というものが
なかったとしたら、
宗教も芸術も、必要なくなってしまいます。

つまり、人間はもっと合理的な生物と
なりうることもできたはずなのです。

計算し、経済交換をおこなう一方、
あいまいさや比喩を用いない、
明晰な言葉を使って
お互いにコミュニケートする生物として
進化することも、可能でした。

ところが、そうはいきませんでした。

ホモサピエンスは
この過剰していくものを
なんとかして捉えようとし、
そこに芸術や宗教を発生させたのです。

このように、
わたしたちのこころには
そもそもの最初から、
その根底に不合理な部分を抱えています。

それは、われわれの知性の
大もとをなしているもので、
どんなところにも所属しないし、
あらゆるこころの機能を
すべて横断しながら動いています。

そして、それこそが
私たちのこころを突き動かし、
思考や感情の動きを
つくり出してきたのです。

<つづきます>



2007-01-26-FRI