アムスでダンス。
J-POPはオランダの夜に流れる

第9回 ケンゾーさん


今回はゲストを迎えてお話を聞きます。
クラブベガスバージョントーキョーの
オープニングパーティーで
すばらしいダンスパフォーマンスを披露してくれた、
アムス在住4年目のコンテンポラリーダンサー、
楠田健造さんです。

楠田健造:ダンサー、振付家。ソフィアモダンダンサーズ出身。1999年より、オランダ・アムステルダムを拠点のダンスカンパニーDiane Elshout&Frank Handelerに参加。国内外の振付家や音楽家などとのコラボレーションを通して独自のダンス世界を展開。 自身のコレオグラフ作品Muse on Screwがハーグ・カ・ダンス・フェスティバルでプレミア上演されるなど多方面に活躍中。

リオ吉
 この間はどうも。
 あのダンスは本当に良かったよ。
 まあ、ケンゾーさんはやってくれるっていう
 自信はあったんだけど、初めてのパーティーで、
 普段コンテンポラリーダンスを見たことがない
 オーディエンスだったから、
 どう出るかな? っていう不安はあったんだけど。

ケンゾー
 んー。いやこちらこそありがとうございます。
 楽しかったですよ。


リオ吉
 それまでのラウンジーな雰囲気が、
 照明落として無音になったら、
 みんなしゃべるのやめて、
 ケンゾーさんのダンスに見入っていったんだよね。
 「なになに、何やるのこの人」っていう感じでさ。
 見ている人の心の中に新しいコンセプトを作るのが
 芸術だとしたら、まさにそれだったよ。
 それで、ケンゾーさんのパフォーマンスのあと
 DJがポラックに代わって、
 思いっきりハッピーダンスなDJになったら、
 また空間の主人公はオーディエンスに移って、
 待ってましたとばかりにみんな踊り弾けたんだよね。

ケンゾー
 ええ。実はもう一度踊る予定だったんだけど、
 あんまり場が盛り上がり過ぎたんで、
 もう中断を入れるのもどうかという感じで、
 そのまま演らずに閉場まで行ってしまった。


リオ吉
 すんません。
 いや、僕も正直言って予想以上の反応で、
 ジーンと来る「報われる瞬間」があったよ。

 ところで、今日わざわざ来て話をしてもらおうと
 思ったのは、僕もまあそうなんだけど、
 ケンゾーさんとかさ、さらに
 「こんな風にやっても生きていけるんだ、
  しかも外国で」
 っていうのを体現している人だと思うんだよね。
 で、僕ものすごく尊敬してるんですよ。そういう人。

 僕らは日本の情報っていうのは、
 ウェブ上でのニュースからか、
 たまにお土産でもらう週刊誌ぐらいで、
 ニュースって基本的には事件事故の
 ハッピーでない話が多いから、
 必要以上に日本のことが心配になったりするんだけど。
 きっとケンゾーさんの話を聞いて、
 元気出してくれる人が、海外と日本の両方に
 いると思うんだよね。
 ということでインタビューを始めます。

ケンゾー
 ええ、僕で良ければ。


リオ吉
 まず、何にも知らない人のために、っていうか
 僕も知らないんだけど、
 ケンゾーさんのダンスって
 なんと呼ばれるジャンルに入るか
 ちょっと説明してもらえる?

ケンゾー
 そうですね。「コンテンポラリーダンス」と
 呼んでもらうのが一番いいかな。
 こっちでは結構、舞踏に似ているとも
  言われるんだけど。


リオ吉
 なるほど。
 本格的に始めたのは大学時代なんだよね。

ケンゾー
 うん。そう、ずっと古い記憶を辿ると、
 小学校行く前ぐらいかな、
 『愛と悲しみのボレロ』っていう映画の予告編を、
 何曜ロードショーだかわかんないけど
 高島忠夫さんので見て、「ああいいなあ」って
 思った記憶はあるんだよね。
 予告編しか見てないんだけど。
 だけど福岡の田舎でさ、
 男がダンスなんかやるとこないし恥ずかしいよね。
 だから家で自分の部屋で
 勝手に踊ったりはしてたんだけど、
 ちゃんとやりだしたのは大学に入ってから。


リオ吉
 俺も長崎で同年代だけど、
 まず男子がダンスやるっていう発想自体がないよね。
 ちょうど僕らが高校生の時の
 『元気が出るテレビ』のダンス甲子園以前には。
 俺なんかあることも知らなかったもん。

ケンゾー
 で、大学入学して寮に入ったんだけど、少しすると、
 寮祭っていって、寮が主催して
 一般学生に寮のことを知ってもらう、
 まあ文化祭みたいなのがあって、
 下級生が出し物をやらされるわけ。
 それでそのダンス甲子園みたいな
 ダンスをするグループが出来て、
 それに参加したんだ。


リオ吉
 ほー、じゃ、結構たまたま始めたって感じなんだ。

ケンゾー
 いや、どっかにはやっぱりあったんだろうけど。
 そのためにみんなで練習やり始めて、
 外が暗くなって、窓ガラスにみんなと踊っている
 自分の姿が映っているのを見て、
 始めて自分を発見したっていうか。
 高校までとか、学校があんまり楽しくはなくて。
 大学入って、学部は経済学部だったんだけど、
 しばらくたって、そのダンスの練習している時、
 これやりたいなーって
 初めて思えたんだよね。それでその後、
 ダンスサークルのドアを叩いた。
 それもものすごく勇気がいってね。


リオ吉
 ケンゾーさん実はスッげーシャイだもんね。

ケンゾー
 で、それからは大学時代はダンスばっかりの生活。
 大学4年ぐらいから、大学外での公演やグループにも
 参加できるようにもなって。
 これを続けて生活していけるかなあという考えも
 生まれてきたんだよね。


リオ吉
 でも、それだけじゃその時は食えないだろうし、
 周りの友人は就職していくよね。

ケンゾー
 うん。やっぱりすごく考えた。
 で、ダンスを止めた自分っていうのを考えて、
 ダンスを止めた自分になりきって、
 電車なんかに乗っているとさ、
 周りの人がダンスの話をしているんだよ。
 「ダンス、ダンス」って言うのが聞こえて。本当に。
 桐だんすの話をしていたりしたのかもしれないけど。


リオ吉
 ふーーん。

ケンゾー
 そのころには、僕のダンスを評価してくれたり、
 いつも見に来てくれたりする人も出てきて、
 やっぱりダンスのない生活ってのは考えられなかった。


リオ吉
 それからは、バイトしながら、ダンスを続けたわけだ。

ケンゾー
 そうだねー。家賃2万円くらいの家に住んで、
 築地とかでバイトしてね。
 ダンスも体を使ったものだからねえ、きつかった。
 あれをもう一度やれと言われると、
 んー出来るかなあ。


リオ吉
 止めようとは思わなかった?

ケンゾー
 やっぱり、一番思ったのは大学卒業の時。
 だからそれ以降は、決めたんだからやらなきゃ
 っていうか、続けるしかなかった。


リオ吉
 それで、そういう生活を5年くらい続けて、
 オランダのダンスカンパニーに誘われたんだ。

ケンゾー
 それまでも、ヨーロッパ公演に参加したりはして、
 なんとなく自分は将来ヨーロッパで
 踊っているんだろうなあっていう感覚は
 あったんだけど、直接のきっかけはなかったかな。
 だけど1999年にオランダのダンス関連の
 交流団みたいなのが日本のダンスの調査にやってきて、
 僕のダンスを見てくれて、
 探していたぴったりのダンサーだって誘ってくれてね。


リオ吉
 Elshout & Handelerっていうカンパニーだね。
 それですぐオランダに来る決断はついたの。

ケンゾー
 いや。最初は半年契約だったんだけど、
 その半年が終わればどうなるかわからないし、
 オランダでどういう生活になるかも
 ダンス以外の部分では想像つかないし、
 終わって日本に戻ってきたとしても、
 不安定に油を注ぐような結果になってることも
 ありうるわけじゃん。
 でも誘われたんだから
 自分の場所はあるかもしれないって。


リオ吉
 それで、来てみてどうだった?

ケンゾー
 うん。半年契約の間に次の仕事も入るようになって、
 次の半年、次の一年とこうやって
 4年こちらで続けられてる。
 もちろん自分から
 常に動き回っていかなきゃいけないんだけど、
 可能性は確実に広がっているかな。


リオ吉
 じゃあ結果的には良かったといっていい?

ケンゾー
 オランダの方がダンサーとして
 生きやすいかどうかっていうと、
 こちらでも厳しいのは厳しいんだけど、
 僕個人にとっては可能性が広がったと言える。
 決して日本にいるより
 楽に出来てるということではないんだけど。


リオ吉
 最近は本当に忙しいみたいだよね。
 雑誌なんかにも良く取り上げられてるみたいだし、
 去年も「オランダの7つのダンス作」に
 選ばれたりしたもんね。

ケンゾー
 えー。おかげさまで、
 コンテンポラリーダンスの世界では
 認知されているという状況にはなってる。


リオ吉
 オランダのほうがこういうことは
 やりやすいという部分はある?

ケンゾー
 そうだねー、例えば、来たばかりの時に、
 健康保険に加入しなくちゃいけなくて、
 その職業欄に「ダンサー」と書いていいと
 言われたときは「ああ認められているんだなあ」と
 思ったよね。


リオ吉
 日本では書けない?

ケンゾー
 うん、「書いてもいい」と思った記憶がないね。
 レンタルビデオの会員証とかの職業欄でも
 アルバイトと書くほうが自然かも。
 あと、こっちは公共の助成金のシステムなんかが
 わりと機能的にできてるかなとは思うかな。


リオ吉
 そうだよねー。アムスは近郊も含めて
 100万人強ぐらいの、日本で言えば中都市なんだけど、
 そのわりには色んなものが割りと安くで見られるよね。
 それを見に観光客も来るし、
 アーティストではなくても
 その周りで働いている人々も多い。
 アーティストやアートが特に尊敬されている感覚は
 ないんだけども、大事にされている雰囲気はあるよね。
 道路や信号みたいな必要なものって感じでね。

ケンゾー
 そうだね、僕も大学卒業して、就職するか、
 かなり厳しいバイト生活で続けるかの
 二者択一しかない感じだったけど、
 こっちはその間の選択の可能性がちょっと広いかな。


リオ吉
 だけど、そのかわり日本の方が、
 そうやって続けて行っている人は、
 気合が入っているっていうか、必然的に生活も考え方も
 ラディカルになっていって、面白い人は多い気はする。
 よく言うんだけど、オランダはメインストリームが
 緩やかで幅広いから、
 反メインストリームもメインストリームの中に
 はいっちゃってんだよね。
 例えばスクワットもドラッグする人も
 ゲイカルチャーとかも言ってみれば
 制度的に取り込まれたりしてる。
 日本の外れちゃった人のほうが面白いといえば面白い。

ケンゾー
 うん。面白い人は多いね、日本は。


リオ吉
 そういう意味では今の日本の文化環境っていうのは、
 面白い過渡期にあるのかな。
 文化的なものに関わらず、
 今まで見出されていなかった価値が
 権利を獲得していく過程にあるような気もするし。
 もちろん日本の文化も文化環境も
 すばらしいものはたくさんあるんだけど、
 なんかこっちで感じる文化的な余裕みたいなのは
 何からくるんだろうね。

ケンゾー
 こちらでも何でダンスをやっているんだっていう自問は
 常にしていかなきゃいけないし、
 ある種戦っていることはあるんだけど。
 時間の余裕っていうのは言えるかな。みんなのね。
 今、おかげさまで僕自身は寝る暇もないくらいに
 なっちゃってるんだけど、
 例えば普通の会社に勤めてたりしても、
 自分の考えはともかく、自分の時間っていうのが
 こっちでは大事にされてるから、
 例えばダンスを学んだり見に行ったりする機会は
 多くなるかなと。


リオ吉
 そうだよね。そういうことが必要だっていう認識は、
 日本でももう普通になってきているからさ、
 ケンゾーさんはケンゾーさんで、
 そうやってダンスを続けて自分の権利というか、
 自分の世界を広げていったように、
 みんな個人個人で広げていくしかない
 って話なんだけど。

 例えばケンゾーさんは、大学卒業する時に
 悩んで決断した。それと同じような状況にある人も
 いろんな分野でいると思うんだけど、
 そういう人たちにアドバイスってある?

ケンゾー
 うーん、アドバイスっていうのは、うーん。
 僕は幸か不幸かダンスというものに出会って、
 就職するとそれは続けられないっていう、
 ただそれだけだったような気がする。
 ただ、まあ、続けていって始めて見えてくる
 世界というか、
 続けないと出来てこない世界っていうのは
 あるかな、と。


リオ吉
 そうだよね。人の縁とかも思わぬ方向から
 出てくるものだし。
 今、ケンゾーさんがこうしてオランダでダンスで
 食べていけてるっていうのは、
 大学卒業時の決断のときは頭になかったよね。

ケンゾー
 海外でやっているかもっていう
 漠然とした思いはあったけど、
 まったく具体的に想像できることではなかった。


リオ吉
 俺なんか、ケンゾーさんみたいに
 「これ一筋」ってのがなくて、
 その「続けているもの」自体が漠然としてる
 困った奴なんだけど、それでも、
 こうやってアムスに適当に来て、
 なんだか知らないけどやってれば、
 繋がるものが出て来るんだよね。

ケンゾー
 そう、例えば僕とリオさん、つい最近になって、
 同じ大学の同級生だってことが発覚して、
 共通の友人もたくさんいて、
 結構すれ違っていたということもわかったり。


リオ吉
 「思えば遠くへ来たもんだ」で繋がって、
 今回お願いしたんだけど、
 お互い地理的にというより、
 「自分に与えられた世界」っていうのを
 色んな意味で広げていこうとはしてきてると
 思えるかな。
 まだまだこれからだけど、お互いがんばりましょう。

ケンゾー
 えー、今後ともよろしくお願いします。
 またいつでも演らせてください。


リオ吉
 こちらのほうこそよろしくお願いします。


アムステルダムを拠点にがんばっている
楠田健造さんでした。
良かったら、ぜひ、感想を聞かせてくださいね。

リオ吉

2003-11-27-THU


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