アムスでダンス。
J-POPはオランダの夜に流れる

第2回 若者よそ者ばか者


前回、「アムステルダムほど自由なところはない」と、
17世紀にデカルトさんが述べた(らしい)と
書いたところで終わりましたが、
どうしてそんな自由な雰囲気があったのかというと、
やはりよそ者が入ってきて作り上げた街だから
といえると思います。移民ですね、移民。
しがらみがなく、ゼロから始める、移民。

もともとオランダのあるあたりは、
海なのか陸なのかわからないような低地の湖沼地帯で、
雨は多いし陽は照らないと、
決して暮らしやすい土地とは呼べなかったところを、
(プロテスタントと呼んでいいのでしょうか)
新興階級とそれをささえる労働者が
干拓で埋め立てて出来たところなんですね。

新しいことは「若者で、よそ者で、ばか者」が
やるといったのは邱先生だったでしょうか、
アムステルダムは、よそ者ばかりで作ったような
ところなんです。
ヨーロッパの中では最もアメリカに感覚が近いかな。
アメリカへ向かう以前のヨーロッパのエネルギーが
吹き溜まって土地を埋めて作ってしまったような
ところと言えば良いでしょうか。
アメリカの善のアイデンティティーが
『自由』にあるように、
アムステルダムも人々の求心力が
『自由と寛容』に求められる土地なのでしょうか。


ダム広場から中央駅を見たところ。
アムステル川にダムを作って
このダム広場を中心にアムステルダムとなるのですが、
ウィンストンはこのすぐ裏にあります。


そのよそ者を受け入れる伝統は深く、
例えば、このJ-popイベントが行われる
ウィンストン・インターナショナル
(Winston International)のマネージャーであり
DJのヤセック君もよそ者のポーランド人です。
彼はまだポーランドが共産主義政権下にあった
少年時代の1987年に、自由世界へ出て行く方法を
考えに考えぬいて、何とヒマラヤのトレッキングに参加し、
ヒマラヤに登った後、そのままネパールに居残り、
働きながら旅してアムステルダムまで
たどり着いたという人です。
そこからしばらくは不法移民として存在しながら、
DJとして、パーティーオーガナイザーとしての
技能を身に付け、現在は晴れて市民権を獲得し、
このクラブの運営をやっています。


ウィンストン。

では、リオ吉はどうなんだと問われますと、
はい、小生も移民です。

シリコンの谷は、いま。」で連載されている
上田ガクさんはシリコンバレーでの仕事を
探すにあたって、入念に準備をされて
さすがエンジニアですが、リオ吉は何の準備もなしに来て、
居ついてしまったタイプです。

思い起こせば日本を出る6年前、
二十代も後半に差し掛かったころでしたが、
はっきりいって行き詰っていました。
一部では名の知れたメディア会社で、
美術館などで流れる映像なんかを作っていたのですが、
毎日何かに追われているだけで何も生み出せていず、
将来の展望も全く見えない気分でした。

とにかく環境を変えたいと悩んでいたんですが、
会社を「辞める」となかなか言い出せずにいたところを、
上司にあたる方がハッパを掛けるつもりで
「お前なんかやめた方がいいよ」
と言ってくださったのを契機に
「(親身に相談にのってくださって)
  ありがとうございます」
と即座に退社しました。
(当時ご迷惑をお掛けした方々、お許しください。
 若いっていいね、ということで。)


退社はしてみたものの、
貯金もほとんどあまりありませんでしたが、
とにかく日本から出てみて、
仕事を探して最低2年は暮らしてみようと思いました。
幸い廻りにそういうことをやったことのある友人が
数人いましたので、「何とかなるものだ」と
けしかけられたこともありました。

アメリカにしようかヨーロッパにしようか
はたまたインド的に攻めてみようかと考えましたが、
心にも懐にも余裕があるわけではなく、
生き抜けれそうなところを現実的に考えました。
そのころもアメリカの移民状況は
厳しくなっていると聞いていましたし、
インドで生き抜ける自信はなかったところ、
ヨーロッパなら何とかなるかもと思って旅立ちました。

ヨーロッパにはたまたま
アムステルダムから入ったのですが、
一月分くらいの生活費しか
持ち合わせていませんでしたので、
ユースホステルに落ちついて、
すぐに日本料理屋のドアをノックして廻りました。
日本人長旅人の鉄則で、
「食うに困ったら日本食屋を廻れ」というのがあります。
そうやって居ついた日本人が
世界各地にたくさんいらっしゃいますが、
リオ吉もその一人です。

幸い仕事を探し出して2日目に
猫の手も借りたい状態の日本食居酒屋さんに
めぐり合いました。
そんな風に、リオ吉のアムステルダム生活は始まりました。
あれから6年たって、思いもよらずまだ
アムスに住んでいます。
毎日追われていることには今でも変わりはありませんが、
心の行き詰まりはこちらに来てからは
少なくなったような気がします。
文字通り右も左もわからない状態から、
仕事を探し、住むところを探しと進んできましたので、
むしろ日本にいたより生活は
大変だったかもしれないのですが、
むしろその生活の大変さが、うだうだ悩むより、
夢を持たせてくれたように思います。
何もないから作るしかないという夢ですね。

「最低2年は日本に帰らない」ということと、
疑心暗鬼になっていたそのころの自分に
嫌気がさしていましたので、
「人を信じてやってみよう」という二つのことだけが
出発時に決めたことでした。


左からクラブベガスの主催者のエリン、
フライヤーをデザインした中条えみこさん、
フランクフルトでレーベル作った羽生さん、
ヒマラヤに上ったポーランド人のDJ−Polackことヤセック、
僕、いろいろ手伝ってくれたクリス。


リオ吉

SUSHI SOUNDS (No.4)
with Qypthone + Pitchtuner


日時2003年10月24日(金曜日)午後9時開場
場所P60 Studsplein 100A, Amstelveen
   アムステルフェーンセントラムの中央図書館横です。

入場料当日8ユーロ、前売り7ユーロ

詳しくは http://www.p60.nl/

Qypthone http://www.qypthone.com/
 コンセプトをつかさどる中塚武、シンボルの大河原泉を
 中心とした音楽チーム、QYPTHONE(キップソーン)。

2003-10-17-FRI


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