どうせだったら、
広告の勉強もしてやれ!

まず、アートディレクターって、どういう人?

第9回 具体的に広告からつながった例

広告ってどういうもの?
アートディレクターはなんなんだ?
そこからはじまった副田さんの話は、
「プロデュースするということ」
について移行してゆきました。

ブエナビスタ・ソシアルクラブで、
ほとんど死んだと思われたキューバミュージックの
ひきてたちを厚め、プロデュースした
ライ・クーダーのようなことを、
アートディレクターという仕事では、
やれる余地がありそうなのです。

具体的に、副田さんの関わった広告から
なにかが生まれ出たという
プロデュースの1つの例についてが、今回の話。

「ちょっと昔、九州の岩田屋という
 デパートの広告をやったんですよ。
 そのとき、井上孝治さんという
 無名の写真家の作品を広告で使わせてもらったんです。
 そのひとは博多在住の聾唖者で、
 プロの写真家になれなかったひとなんだけど、
 写真は昭和30年くらいの、ちょうどぼくらが
 その頃だとまだまだクーラーとかがない時代で、
 商店街とかに氷柱というか氷がぼんとおいてあって、
 そんな時代。カメラも貴重だし。
 そんな人々の表情を、撮っていたんです。
 こんなすごい写真家が、眠っていた!と思った。

 70歳くらいのおじいちゃんなんだけど、
 岩田屋の企業広告で使いたいって探して、
 井上さんと出会って広告キャンペーンをやりました。
 岩田屋というデパート広告は九州内でしょ?
 それだと、九州のひとがその広告を見ておわっちゃう。
 ぼくはそれ「だけ」じゃもったいないと思ったんです。
 彼の写真は普遍的で、
 『九州の』というんじゃなくて、すばらしい・・・。
 日本の貧しい時代を写しているんだけど、
 でもね、なんかいいのよ!
 豊かなのよ、ある意味では。

 高度成長でものも豊かになったけど
 ほんとの豊かさは物質だけじゃないでしょ?
 むしろ彼の写真はなんか豊かな気がするし、
 それで写真集をつくろうと思ったの。
 河出書房の編集者のかたに写真見せて
 そしたらそのひとも
 『いやあ、すばらしい』
 って言って、写真集をつくってくれた」
 
広告から、写真集になったんですね。

「それがきっかけで、このひと脚光あびたりして、
 聾唖者だったということもあるし、
 今バリアフリーとか言われているじゃない?
 乙武くんとかもそうだし・・・。
 「こんなすごいひとが九州にいたんだ」
 っていうことで、
 メディアにもとりあげられたのね、向こうで。
 で、スターダムにのしあがって、フランスにも行った。
 アルル国際フェスティバルの
 日本代表の2人のなかのひとりにもなっています。
 坂田栄一郎さんとこのひとで行ったのね。
 アヴェドンとかがいるそういうなかのひとりになった」

えー!すごい。

「井上さんは、フェスティバルの
 ちょっと前に亡くなったんですけどね。
 フランスにいる女流の映画監督が
 この写真を見て感動して、
 ドキュメンタリーの映画つくっちゃったわけ。
 彼女は、おじいちゃんとおばあちゃんに
 育てられたらしいんだけど、
 そのふたりともが聾唖者だったの。
 自分がそういうおじいちゃんとおばあちゃんをつなぐ
 通訳で、それで自分は自分でしゃべれるから
 学校に行って、という育ちかたをして
 この写真と出会ったからなんですね。
 聾唖というぼくらとは違う世界があって、
 だけどそこに素晴らしい才能があって、
 視覚が優れてしまうっていうかね・・・。
 そこには音がないだけで、
 違う目線があったり、あったかさがあったり。
 その映画、ドキュメンタリーの
 世界的な賞をとったらしいんですよ。
 そのひと(ブリジット・ドメールさん)は
 ひとりでカメラ持って日本にも来ました。
 ぼくもきっかけになったから取材されて、
 それもまたドキュメンタリーっぽい映画になりました。
 文章に書いてくれたひともいます」

うれしいでしょうね、そういうのがあると。

「ライ・クーダーとまではいかないけど、
 ぼくらなりのすごい偶然な出会いがあって、
 これはやっぱり写真集にしたからだと思うんだけどね。
 と言うのは、広告ってそのときにおわっちゃうから」

広告は、おわっちゃうんですか・・・。

「井上さんの人生の最後の5年くらいの出会いだけど、
 ぼくらと出会っていなかったら、
 その写真のネガは捨てられていたんですよ。
 そしたらぼくらこの写真を今見てないわけです。

(つづく)

2000-03-24-FRI

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