KANA
カナ式ラテン生活。
スペインは江戸時代の長屋みたいさ、きっと。

【30週】

 胎動エリアがいつの間にかヘソを越え、
 胃のあたりまで広範囲にムニュムニュと動く動く。
 これって……。
 うすうす思っていたけど口にしなかった言葉を、
 ツレアイがぽろり。
「『エイリアン』、やなぁー」
 や、やっぱり!?

 仏文学者・内田樹さんの本で知ったのだけど
 もともと映画『エイリアン』が下敷きとしているのは
 「体内の蛇」というヨーロッパの古い怪奇談。
 この話は、「妊娠・出産」に対する
 女性の恐怖と嫌悪を表しているらしい。
 実際に妊娠してみたら、
 この「ゾーッ」というかんじが
 たしかによくわかった。

 そのせいかどうかはともかくとして、
 妊娠・出産が「怖い」という思っている女性は
 実は、けっこういるらしい。
 そう感じたのは、参加した出産準備クラスにて。
 初日、
 集まった15人が、まずそれぞれ自己紹介をした。
 一番目はヌリアちゃん、あとで訊いたら32歳とか。

「はじめまして、3歳の子どもがいます。
 前回、この教室と、同じカルメン助産婦の
 産後教室に参加してとても良かったので
 また参加することにしました。
 皆さんには、経産婦として
 アドバイスできることもあると思います。
 よろしくお願いしますね。
 前回のお産は、それは素晴らしかったです」

 ここまで言って、急に黙った。
 ん? と、見ると、泣いている!
「ごめんなさい。
 でも、ほんとはいま、すごく怖いの。
 なんか太りすぎちゃったし、それに、それに……」

 その後、同じように泣いたひとが3人。
 ほかにも次々と
「体型がどんどん変わって自分じゃないみたい」
「これまでと同じペースで仕事や生活ができなくなった」
「夜、トイレに起きる回数が増えてよく寝られない」
 だから、
「怖い/不安/とてもナーバス、です」と続く。
 どよーん。
 なんか、思いもかけなかったかんじで
 クラスはスタートした。


 べつに「母になる喜びは出産の恐怖を上回るはず」
 と、思っていたわけじゃない。
(むろん、そうあればいいな、とは思うけど)

 いや、ひょっとしたら私だって、
 本当はけっこう怖いのかもしれない。
 まず、言葉が不自由だ。
 いま一生懸命「硬膜外麻酔」やら「おしるし」やら
 ふだん使わない単語を調べまくっているけれど、
 その場で必ず理解できない単語は出てくるだろう。
 さらに、日本では一般的じゃない無痛分娩をするのに、
 日本人より耐性が強いとされるスペイン人並みの
 麻酔を投与されやしないかという不安もある。
 加えてギックリ腰という持病もあり、
 ひとより背骨が1本多いという奇病でもある。
 さらにさらに
 糖尿病の疑いもあり(再検査ではギリギリセーフ)、
 先日は羊水過多&逆子とも言われたもんね。イエー。
 んでもって、東洋人である我が子の頭はすでに
 スペイン人平均より大きいことが判明している一方で、
「東洋人は骨盤が小さいから
 簡単に帝王切開されちゃう」という噂もよく聞く。
 だいたい、なんといっても初産だしさー。
 不安要素、てんこもりよ!

 不安がろうと思えば、なんぼでもなれる。
 それにね、自慢じゃないけど、
 本当はすごく気がちっちゃいのだ、私。
 道でカーネルサンダースにぶつかっても、
 誰か急いでいるひとにぶつかられても、
 思わずこっちから「すんません」と謝るくらいに。

 実際、切迫流産の危険を指摘されて安静にしてたときは
 くしゃみひとつしてもそりゃもう不安で不安で、
 オイオイオイオイ泣いていたよなぁ。
 やがて安定期になり、胎動が始まって、
 いつの間にか落ち着いていたんだな、そういえば。


 ともかく、予想外のかなり暗い雰囲気のなかで
 全員の自己紹介が終わった。
 と、カルメン助産婦が、ニコリと笑ってこう言った。

「妊娠出産は、ひとりひとりに固有の、個別の体験です。
 ほら、みんなの顔を見てごらんなさい。
 ひとそれぞれ、千差万別でしょう?
 妊娠出産もそれと同じ。
 みんなそれぞれ違うのが当たり前なんです。

 だから、とにかく他のひとと比べないことが肝心ね。
 周囲が親切でいろいろアドバイスくれると思うけど、
 思い切って、聞き流しちゃいなさいよ。
 そう、たとえばここで習うことだって、
 家に帰ったら半分は忘れるくらいの心意気でね!(笑)

 たとえば胎動だってひとそれぞれで、」

 そう言うとカルメンはすっと立ち上がり、
 ヌリアちゃんのところに行った。
 そしてお腹を優しく触りながら、なにか囁いている。
 そうやってまわって、やがて私の番。
 彼女は私の手を取り、自分の手のひらで包むようにして
 私のお腹の上に置き、目を見て微笑みながら
「感じる? 赤ちゃんの心音。
 そうね、ベースは静かで穏やかなタイプかしらね」
 と、教えてくれた。
 こうして全員のところをまわったあと、話を続ける。

「本やインターネットで情報収集もいいけれど、
 いまそこにいる赤ちゃんの声を、聞いてあげてね。
 あなたの身体をいちばん知っているのはあなた、
 あなたの赤ちゃんのことをいちばんよく知っているのも
 他ならぬあなた。でしょう?

 ね、そうやって自分に自信をもつことが、
 気を楽にして妊娠出産を過ごす、最大のコツよ」

 さわーっと、笑顔が広がった。
 あぁ、いい話を聞いたなぁ、と、
 私もこころから思った。


 そうかそうか、たとえば私なんかは、
 なんの因果かスペインで出産する東洋人で
 ギックリ腰もちで背骨が多くて
 かなりお調子者のかなり小心者で、
 そういう私の「妊娠出産」しか、できないんだよな。

 そう考えたら、たしかにぐんと気が楽になった。

 けっこうそれでますます呑気になっていたのだけど、
 後日、久々に号泣してしまう羽目に!
 ようやく立ち直ってこの原稿を書きましたが、
 事件の詳細は、次号にて。ヨヨヨ。

カナ

※内田樹研究室内
 「今夜も夜霧がエスパーニャ」もよろしく。





『カナ式ラテン生活』
湯川カナ著
朝日出版社刊
定価 ¥700
ISBN:4-255-00126-X



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2006-10-23-MON

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