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矢沢永吉、50代の走り方。

第16回 20代を振りかえると……。








むこうは、完全なディスコバンドだよ。
オレは、違う。

オレは、おまえらとは、夢が違うんだ。

ディスコで終わるバンドじゃないって
プライドが常にあった。だから、強かった。

うちのドラムに
「悪いけど、今日限りでお疲れさま。ごめんな。
 おまえ、もう、この機会にやめたほうがいい。
 この世界には、むいてない」シビアなこと言った。
むこうもそういう雰囲気、わかってたんだよ。

オレは、あの当時、完全にプロを目指してるわけよ。
広島から、スーパースターになるために追ん出てきたの。
だから、東京で親のスネかじってるやつ、もう必要ない。

「学校に帰りなさい。就職しなさい」ってことさ。



          『成りあがり』(矢沢永吉・角川書店)より





(※「ほぼ日」糸井重里へのインタビューです)


ほぼ日 矢沢永吉さんは、
50代に近づいた頃のインタビューで、
自分の20代のころについて、
次のような内容のことを、話しています。

「感性……感じる気持ち。
 感じる気持ちって、何もいいことばかりじゃない。
 怒りもあれば、意思表示もある。

 『今の世の中のココとココはいいけれど、
  ココとココは、クソだ!』とか。
 若くて、リンクするところはリンクするし、
 拒絶するところは拒絶するしというそのころに、
 ぼくは、誰よりも素直だったと思う。

 世の中っていうのはおかしなもので、
 それを言ったらおしまいよ、っていうことが
 けっこうあるんだけれども、それも言っちゃった。
 敵も、たくさん作っただろうね。
 敵を作ることがうれしかった時期だと思う。

 とかくみなさん、敵を作ることがいやで、
 あっちにもこっちにもイイ顔をしますけれど、
 それはナンセンスだと思った。

 だって、そうなのよ。
 大いに敵を作って、大いにお膳ひっくり返して、
 大いに言いたいこと言って、大いに走って、
 大いに銭が欲しいと主張する。
 あのころの矢沢は、
 『カネもって来い!』
 『オレはカネが欲しいんだ』って。

 だから、今になればよ?
 ……すっごく照れくさい。すっごく恥ずかしい。
 当時の本を読んでも、当時のビデオ見ても、
 恥ずかしいんだけれども、でも、
 『じゃあ、矢沢さん、否定しますか?』
 そう言われたら、やっぱり、
 どれひとつとっても、いとおしく思う


この、20代の姿をいとおしく思う感情について、
同年代の糸井さんは、どう思いますか?

糸井 「カネが欲しい」という表現って、
当時の永ちゃんとしては、きっと、
「俺は生きたい」って言ってたんですよ。
「もっとよりよい生き方が、まわりにあるらしい。
 俺もそれをしたい!」と言ったんだと思う。

そんなようにしか言いようがなかったことを、
「あぁ、若かったなぁ。
 当時の矢沢は、そうとしか言えかったんだなぁ」
と、まるで自分の息子を見るような
気持ちで、振り返るんじゃないでしょうか。

同年代のほかのやつは、ぬくぬくと暮らしてた。
ほかのやつが、抽象的なことを
クチの体操として、机上の空論で言ってる時に、
「身体全体と言うこととを一緒にして
 何かを言おうとすれば、俺はこうなるよ」
永ちゃんは、それを実践していたんだけど……。

ほぼ日 矢沢さんは、
「もしも50歳近くになった今も、
 ぼくがカミソリのような男だったとしたら、
 それは、悲しいことですよ」

とも言ってました。
みんなは、カミソリのような昔の矢沢さんを
好きかもしれないけれど、それは違うと言ってた。

糸井 いつでもヒジをあげて、
ボクシングのガードの姿勢でいながら
道を歩いていくっていう生き方は、
悲しいじゃないですか。

人間は、そういうようにはできていないと思う。
リラックスしたり、戦ったり喜んだり、
ぜんぶあってのことでしょ?

だから永ちゃんは、若いころの自分について、
「気の毒だなぁ。
 でも、気の毒だけど、よくやってるなぁ。
 おまえの今、それしかできないことを
 精一杯やってるんだろうなぁ」
そう言いたいぐらいなのではないでしょうか。

もし、今の永ちゃんの前に
昔の矢沢永吉が来たとしたら、一杯おごってやって、
黙ってそいつの話を聞いてやりたい、とでいうか。
「わかるよ。俺もそうだった」なんてね。

20代はじめの永ちゃんは、
とにかく食っていくことに必死だった。
だから、彼に言わせれば、当時の学生で
ヘルメットかぶって闘争してるやつなんて、
甘いって思っていたんじゃないかなぁ。
「そんなの、余裕あるじゃん」って。

勉強なんてしてこなくて、
発言なんて求められもしなくていいと思われる
当時の大多数の人間の代表が、永ちゃんだった。
つまり、マイナスカードを持ったところからの
サクセスストーリーだったわけです。
「ハンデを背負っている人間が、立ちあがる。
 ……けっこう、やれるじゃないか」
そういう古くから言われている文脈に、乗れた。

永ちゃんはわざとやったわけじゃないけれど、
「まだ、食うに困っている人間がいるんだ?」
という流れに、みんな、度胆を抜かれたんです。
だからみんな、当時に出た
『成りあがり』については読むしかないし、
「わかるよ」としか、言いようがなかった。

抽象的に議論だけしていた学生がいて、
永ちゃんのような人がいて、そのほかにも、
農民の子どもとしてはじめて上京した子だとか、
東京には、いろんな人が流れこんできた時期です。
都会は、とりあえず何でも飲みこんでいた時代で。

見本もなければ、マニュアルもない。
だから、いろんな人が
世の中に、放り出されてました。

自前の何かを持っていない人は、
どこかの集団に属したりする。
自前のものが見つかった人は、
そこからスッと走っていけたと思います。

音楽をやるにしても、音楽を純粋に好きだった人は
すごく気持ちとしては、楽になったでしょうね。

「あれもいいな」「これもいいな」
のままだと、メディア(媒体)にしか過ぎない。
自分のどっぷり入っていく場所ではなくなる。
でも、場所として音楽を持っている人ならば、
挫折するにしても、まともな挫折をしますよね。

大多数の人は、これが芯から好きなんだという
場所を、当時、持ってなかったんじゃないか?

少なくとも、ぼくは持っていなかった。

いま、矢沢永吉のような存在がいない、
なんて言われたとしても、当たり前だと思います。
そういう強大なものが求められたのは、
日本の戦後の中で、ぽっかりと
欠けていた部分があったからなんです。

彼が求められたことには、はっきり理由があった。
しかも、あれだけ負けないまま
勝つぞ勝つぞと言いつづけられる人も、
ほかにはいなかったわけでして……。

いま、影響を与える若い人が出るなら、
それはまったく違う物語を抱えた人からですよね。
たとえば、浜崎あゆみさんだとか。
でも、永ちゃんのころと時代の雰囲気が違うから、
「俺はわかってあげたくない」という人からの
バッシングが、あるんだろうねぇ。
それは、腐っているところだと思う。

さっきも少し言いましたけど、
若いころって、
ほかの暮らしをしている人のことが、
ぜんぜん見えていないんですよね。
自分のまわりのことしか、見えないから。

若い人は、自分のまわりの世界以外に、
どれほど広い世界が広がっているかについて、
どんなに言われたって、聞いていないでしょう。
また、その世界しか
見えないようにしておかないと、
逃げたくなっちゃったり、
いやになったりするという怖さもある。


ぼくが学生運動のまねごとをしてた時に、
永ちゃんは荷役なんかのバイトをしながら、
バンドをやっていたわけですよね。
村上春樹だって、違うことをしていた。
ほぼ日の「調理場という戦場」に出てくる
斉須さんは、フランスで料理を学んでいたわけです。

ほんと、いろいろ、違うことをしていたんですよね。
「あのころのハタチは、みんなこうだった」
なんてよく言われているけれども、
そんなことは、とてもじゃないけど言えない
です。



(※糸井重里へのインタビューは、次回につづきます)

2002-08-07-WED


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