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矢沢永吉、50代の走り方。

第15回 「カネが欲しい」と、言っていい人間。








オレの正義は銭だっての、合ってるね。
……ほんとは、銭じゃないのよ。

ほんとは銭じゃない。
オレに、こんなに銭だって思わせた何かに腹立ってる。

あの空気、あの雰囲気に腹が立つんだよ。
長屋の空気、長屋の酸素!
オレをみじめにさせてた。

長屋の空気、オレ自身かもしれないな。
オレも、全部ひっくるめたあの空気に、怒ってる。

オレは、最後までそれを忘れたくないね。
銭。癪で言ってるのかもしれない。でも言いたいんだ。
簡単にキレイごとを言うやつは大嫌いだ。

「銭じゃ買えないものがあります」
ふざけるな! この野郎。
おまえにそう言える背景があったのか。



          『成りあがり』(矢沢永吉・角川書店)より







(※今日からの数回は、再び、ほぼ日の
  糸井重里へのインタビューをお送りいたします!)



ほぼ日 大手のレコード会社から独立して
インディーズになっても、
アルバムが85万枚を超えちゃうという
「Hi-STANDARD」というバンドがあります。

海外での評価がとても高いこのバンドの
ギタリストとボーカルを担当する横山健さんは、
矢沢永吉さんを、非常に敬愛してるそうです。

横山さんは、矢沢永吉さんの公式ホームページで、
次のようなことを、語っていらっしゃいました。

「矢沢さんは、リハーサルの前は、
 ふつうの50歳の男性、なんですよ。
 でも、リハーサルがはじまると、
 自分のやりたいことを形にする力がものすごい。
 この方は、中身のすごさで渡ってきたんだなぁ、
 というのを、すごい感じました。

 ふだんかっこつけてないのに、
 現場で、めちゃくちゃ、かっこいい。
 ぼくも、ギター持たなきゃタダの人、
 でも、ギター持ったら負けねぇぞ、
 音楽の現場では負けねぇって気持ちでやってるから
 見習いたいし、ああありたいと思います。

 矢沢さんとぼくらとの共通点は、
 『海外』と『独立』ということが大きいですね。
 その時代時代で許されることが違っていて、
 その中でお互いに目一杯やっているというか。
 矢沢さんは、70年代の、まだロックと芸能界が
 ごっちゃになっていた頃から道を開いてきてる。
 当時で最大限にできることを、実行されてきた。
 そういう先輩たちがあってこそ、
 ぼくらは今できることに全力を尽くせるんです。

 音楽性はちがえど、姿勢を、
 すごいお手本にさせていただいてます」

こう言える健さんってすごいし、
矢沢さんと健さんとの50代と30代の
現役どうしの関係は、すばらしいなぁと感じます。

その時々にやれることをぜんぶやる、
という積み重ねで仕事をしてきた結果が
矢沢さんの50代の走り方につながっているので、
「矢沢さんの20代や30代の頃の話を聞くと、
 それは今の20代や30代の人にとって、
 すごくヒントになるのではないか」
と考えました。

そこで、20代の頃に矢沢さんに会って、
一緒に『成りあがり』を作った糸井さんに、
20代の頃の矢沢さんを、どう見ていたか、
ということを、うかがいたいと思います。
矢沢さんがデビューした時代に精一杯やることって
いったい、どういうことだったんでしょう?

糸井 ハタチになりたてぐらいの若い頃って、
ただでさえ、まわりが見えていないし、
何よりも、自分のいる世界以外の世界を、
想像するということが、できないんですよね。

そういう視野の狭さの上に、
永ちゃんやぼくが20代の頃って、
今よりも、ずいぶん違うことがひとつあって。
もっと、オトナと子どもとが、断絶していました。
見本にしたいオトナが、見えない構造になっていた。

だから、自分自身のことで言えば、
「あの人は、かっこいいなぁ」
と思える人が、なかなか見つからなかったんです。
見つけようがないから、
誰しもが青春時代に惹かれてしまう、
たとえば太宰治のようなものを読んで、
「これ、いいなぁ」と思うしか、なかった。

そうなると、他にも例を挙げれば
高倉健さんの映画の主人公、つまりヤクザだったり、
赤塚不二夫さんだとか、とにかく結局のところ、
「はぐれ者です」と宣言している人たちの視点を
学んでいくしかなくなって……。

どうなるか。
はぐれていない人は、
みんな、かっこわるいように見えちゃってた。
今の社会を作っている人たちに、
自分たちの見本はないというような雰囲気が、
それはぼくだけではなくて、
時代の基調として、流れていたような気がする。

その空気が流れていたことの理由って、
ひとつは、自分たちが
戦争が終わってすぐに生まれたからだと思う。
オトナたちは、負けちゃった時代を原点にしている。
「あれ? 親の言ってる通りは、間違いだったな」
ぼくたちの親は、そんな自信のなさみたいなものを
残したまま、戦後生まれの人たちの教育に入った。


それで育ってしまったから、非常に困る。
だから、ヘンなことをしている人のほうが
魅力的に見えたりした。
自分は、すねたり、ねじれたりしている。
社会を構成している人は憎みたい、だとか。
そういう時代でした。

だから、今、ほぼ日を読んでくれている
ハタチの人たちを見ると、
「なんてすばらしいんだ」と感じるんです。
積極的に、先輩から学ぼうとしていますもん。
ぼくら、先人のしたこと、知ろうともしなかった。

「飛鳥時代から続いてる大工の考えがすごい」とか、
今の若い人が、そういうことも敏感に感じとれるのは、
そう思えるだけの、「自由」があるんですよね。
くだらない反抗だけで生きていくようなことを、
しなくて、すむわけだから、やっぱり豊かですよ。

ぼくが10代の後半の時代には、
自由自由とさけびつづけながら、フーテンをして
何もしないで一生を送る超モラトリアムな生き方や、
「何も探せないんだ」みたいな表現をする人が、
正直だと思われていたんです。
そんな中で育った人間の下地は、
ほんとうに、ぜい弱なものだと思うよ。

それで、当時の学生だとかは、
社会やおまわりさんに、とにかく反抗したり、
何もわからないまま、象徴的な議論ばかりをして……
つまり、身の丈に、合っていないわけです。
シンボリックな生き方。
ぼくも、えらそうなことを頭だけで言いながら、
何か居心地の悪さを感じていた。

ほぼ日 肯定をしないで、
否定ばかりをしている時代だったんですね。

糸井 そういう観念的な時代に、
「オレは、金が欲しいよ」
って言いながら、同年代の永ちゃんが現れた。

それって、それまでは、
「言っちゃいけないこと」だったんです。
誰も、金がほしいなんて言ってなかったんですよ。
「オレのために、おまえらから金をもらう」
って言ってるようなものじゃないですか。

はじめてそういうことを言う人が出てきた。
もちろん、それまでにも、
そういうことを思っていた人はいっぱいいた。
言わないけれどもそう生きてきた人もいた。
でも、それを大声で、
公の場所で言える人が出てきたものだから、
それはみんな、驚いたんですよ。

永ちゃんは、それまで
「発言を求められもしなかった人」の代表として、
しかも一個人として、「金が欲しい」と叫んだ。

ふつう、そんなことを言ったら
怒られそうなものなんだけれども、怒ろうとしても、
「オレは、ひどい目に遭ってきた。
 そういう目に遭ってないヤツに文句は言わせない」
「原爆があった、貧乏があった……」
そうやって、永ちゃんは事実を語ったものだから、
発言が、丸ごと、「言ってオッケー」になった。
あなたなら言っていいよ、言う資格ある、って。

そこに運命というものがあって、
「矢沢永吉」という人が、
その時代に、必要とされていたんだと思う。

たとえば、ぼくが当時、同じような場所で、
「ぼく、それなりに暮らしてきました。
 おまえら象徴的な議論してるやつ、うるさいぞ。
 ぼくはキャデラックに乗りたい。カネ、欲しいです」
と言ったら、絶対に怒られていたでしょう。

ぼくも当時、永ちゃんの話を聞いて、
「永ちゃんなら、言っていいよ」と思ったもの。
しかも、象徴的な議論をしている坊ちゃんたちは、
そういう話に、弱いんですよねぇ。
インテリのコンプレックスまで刺激して、
学校の先生まで、永ちゃんを支持したりする……。

永ちゃん自身としては、
自分を売り物にしたわけでも何でもない。
戦略でもない。ただ、事実だった。
そうやって、20代の永ちゃんが、
ワーキングクラスのヒーローになっていった。
そういう驚きが、最初はありました。

どういうオトナになりたいかの像が、
みんな、すごくニヒルなものだった時代に、
積極的に何かをつかみたい、
と言う人物が出てきたんです。



(※糸井重里へのインタビューは、次回につづきます)

2002-08-05-MON


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